1945年5月29日の横浜大空襲から明日で70年。本紙では青葉区ゆかりの戦争体験者を取材し、それぞれの記憶を連載でたどる。
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市ヶ尾町在住の鈴木光男さん(87)は、戦時中の学徒勤労動員=注=の経験を持つ一人だ。旧制中学5年生(当時16歳)の時、故郷の福島県から相模陸軍造兵(ぞうへい)廠(しょう)(現・在日米陸軍基地相模総合補給廠)に動員された後、旧制高校1年生として山形県の地下病院の建設に動員され、終戦を迎えている。
それから25年後、東急田園都市線が開通して間もない青葉区に。82歳の時、学徒勤労学生の経験を記録しようと、当時の日記を『学徒勤労動員の日々』(近代文藝社)にまとめた。「学徒勤労動員について取り上げられることは少ない。後世に残したかった」と動機を話す。
日記には少年時代の体験や心情がつづられている。配属された工場では、牽引車のエンジンを製造。12時間労働で、1週間ごとに夜勤もあった。次第に空襲警報が増え、不安な日々が続いた。
「2月17日 …敵機来襲の間をぬって漸くにして寮に帰る。そのとたん、頭上の敵機より猛烈な機銃掃射あり。…わが十四番室の前の廊下の柱に敵弾三発命中。…遂にわが部屋は狙われたり。…宿舎前の広場のタコ壺濠に入る」(同書より)
45年2月の空襲では、鈴木さんの宿舎で死傷者はいなかったものの、造兵廠の別の工場では女子挺身隊を含む数名が亡くなった。
中学が修了する5年生の3月に、同造兵廠で卒業式は行われたものの、学徒勤労動員は延長され、工場にとどめ置かれることになった。5月の横浜大空襲の日記には、異変の様子が記されている。
「5月29日 …B29が横浜地区に来襲した。我々の頭上を通過して行く。…横浜の方をみると、どんよりとした曇り空の下に、黒い煙がただよっていた。異様な焦げくさい臭いもした」(同書より)
その後、工場では「周りでもかなり多くの横浜の人が休んでいた」と振り返る。親類、知人の安否の確認や、焼け跡整理の手伝いなどで、横浜に向かった人が多かったという。 ―つづく
注…学徒勤労動員とは、国の方策で中学から大学までの生徒・学生が戦力増強のために農村や工場に動員され、産業に従事したもの。
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