石川下谷地区、現在の国学院大学グラウンドの場所には、日本軍の射撃演習場があった。旧山内中学校の辺りは兵舎だったという。
すぐ近くの谷戸で、野菜や米、麦などを代々つくってきた工藤義直さん(81)=新石川在住=は「工事が始まったのは昭和15(1940)年ごろ。2年半くらいで完成した」と当時を振り返る。郷土史研究家・横溝潔さんが著した『山内のあゆみ―石川編』(音羽書房)によると、1940年に当日の陸軍第一師団が「陸軍溝ノ口演習場」としてこの地を指定したとされている。
終戦の少し前、国民学校5年生だった工藤さんは、学校が終わると土手を登り、演習場の様子をのぞく日々を過ごした。200〜400mほど先にある障子2枚分くらいの的を、歩兵が軽機関銃などで狙う。対戦車砲は馬2頭で引いていたようだ。朝から夕方まで演習中は赤旗が立ち、その辺りは農作業を中止しなければならなかった。
現在の宮前平付近には高射砲が30門ほどあり、B―29など爆撃機を狙って夜でも砲撃が行われていた。「この辺りで空襲はほとんどなかったが、高射砲の弾がさく裂して、ビュービューいいながら降ってきた」。破片は大きいもので手のひら大のものもあり、トタン屋根を突き破るほどだった。
「ここで空襲にあうことはなかったが、70年経っても食べ物のことはよく思い出す」。戦況が進むにつれて駄菓子屋からは商品が消え、戦後も味の落ちたお菓子が出回ることも。食糧難はしばらく続き、原料をドングリの粉で代用した米菓子なども口にしたと振り返る。
ここの演習場は戦後、自衛隊の敷地になる計画もあったが、最終的には大学のグラウンドになった。家族が戦火に巻き込まれ、食糧や衣類のない気の毒な同級生の姿が、今も脳裏に思い浮かんでくる。「戦争は悲惨。やっぱりしたくない」
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