青葉区(旧緑区)荏田町で1977年、9人の死傷者を出した横浜米軍機墜落事故。犠牲者の一人、土志田和枝さんの命日にあたる1月26日、事故を伝える活動を続けてきた齋藤眞弘さん(74)=緑区=が、年表を冊子にして発行した。事故から38年が経った今、「事故が起きにくい世の中になったのか。読んだ人に考えてもらいたい」と話す。
齋藤さんは市民団体「横浜米軍機墜落事故平和資料センター」の代表を務める。事務所を兼ねた自宅には、墜落機の破片のほか、事件に関わる資料や写真を保管し、整理等を続ける。
同団体はこれまでも冊子を発行しており、前回の年表発行からは10年が経過。その後の資料を整理したかったことに加え、3年前に齋藤さんが胆管がんを患った経験から「今のうちに資料を後世に残さなければ」と新たな年表の作成を決めた。収集した資料をもとに、齋藤さんが編著を手掛け、挿絵の提供や校正など、知人らの協力も得て完成させた。『横浜米軍機墜落事件年表 人々が残したもの』と題した冊子には、重症を負った女性の夫が国と米兵を訴えた裁判など、事故とその後の活動や国の動きが記録されている。また被害者や支援者の思いも読み取れるように編集した。
事件直後、野次馬の一人として墜落現場を見に行ったことがきっかけとなり、活動に携わるようになった齋藤さん。事故直後、和枝さんの幼い息子2人が亡くなり、同世代の子どもがいたことから怒りが込み上げてきたという。中学生の平和学習で事故現場を案内するなどしていたが、86年に各支援団体メンバーら8人で同団体を設立。各所で資料展示等を行ってきた。
現在10人ほどが活動を手伝うが、高齢化が進み活動規模は縮小傾向にある。「それでもまだやる仕事はたくさんある。今後は活動の感想も含めた手紙や当時のメモ、雑誌などの資料もまとめていければ」と話す。
「現況見直すきっかけに」
この事故では、米軍ジェット機が民家を巻き込んで墜落し、炎上。和枝さんの息子・裕一郎君と康弘君が亡くなり、全身にやけどを負った和枝さんも4年4カ月後に亡くなった。当時、被害者の支援団体が複数発足し、日米両政府に対する抗議活動等も行われた。
齋藤さんは当時の事故を、第二次世界大戦と現代の間に起きた、歴史的に重要な中間点にあたるととらえる。「あれから時が経ち、今では墜落の危険が少なくなったか考えると、危険な状況は増しているように感じる」と、オスプレイの配備増強の動きなどを憂い、語る。「『かわいそう』という視点でなく、今の世の中を見直すきっかけになれば」
冊子は500円(送料200円別)で販売している。詳細は齋藤さん(【電話】045・933・3954)。
|
<PR>
青葉区版のトップニュース最新6件
|
|
|
|
|
|
|
<PR>