「町のため、人のためというより、自分自身どうしていいかわからなかった」。考えの幅を広げたい―そんな思いで、故郷の福島県浪江町の復興支援員になったのは昨年9月のことだ。避難者のもとを訪ねる毎日に「町のことを知らなかったと痛感している。勉強になる」と笑みをみせる。
原発事故で居住制限が続く浪江町では、全国10拠点に避難者をサポートする復興支援員を配置。神奈川県駐在は昨年5月、藤沢市に置かれ、3人の支援員が在籍する。担当エリアは神奈川県、山梨県、東京都の一部と幅広い。役場から送られてくるデータをもとに電話をかけ個別訪問を行うほか、交流会も実施する。訪問時間は最低でも1時間、長ければ4〜5時間に及ぶこともある。「地元の話や近況など、雑談がほとんど」。賠償問題など、専門的な内容には相談窓口を紹介する。アポがとれれば大半の人は喜んでくれるが、電話口で辛辣な言葉を投げられたこともある。「ぶつけようのない怒りを抱えている人もいる」
出身は浪江町権現堂。塗装会社に勤務しており、震災当時は福島第一原発内で作業にあたっていた。経験したことのない大きな揺れには「正直『またか』という気持ち。そんなに深刻だとは思わなかった」。責任者の判断で撤収し帰宅。停電で家の中の状況もわからないまま親戚宅に1泊した。翌日、早朝から防災無線で繰り返し避難指示が流れる中自宅へ戻り、ポケットに入る程度の貴重品を持って避難した。「すぐ戻れるだろう、と思っていた。浅はかだった」。母と2人、妹夫婦を頼って港北区に身を寄せ、現在は青葉区内の借り上げ住宅で暮らす。
傷みが進んだ浪江の自宅は解体を決めたが、町内の一部は再来年3月に避難指示解除を予定。町に戻るか、結論は出ない。原発自体を否定する気はないが、長期的に住むのは怖いとも思う。一方で町をなくしたくない、とも。「帰郷するか残るか、町民自身がきちんと選べる環境が整っていけば」
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