5歳で満州事変、11歳で日中戦争が勃発し、終戦を19歳で迎えた―。奈良在住の鴨志田イクさん(89)は、多感な青春時代を「戦争一色で生きてきた。将来の夢、そんなこと考えられなかった」と心情を語る。敗戦まで軍の厚生施設「共栄会」で働いていた。
現在、「こどもの国」がある場所には戦時中、弾薬庫が整備され、旧陸軍田奈部隊が管理していた。戦地に送る弾薬の保管、発送と製造もしていたという。「共栄会」は現在のこどもの国駐車場に位置し、今で言うスーパーマーケット。ここで鴨志田さんは、主に店内の「売り子」として18歳頃から仕事に就いた。「日本が勝つと思っていたから、一生懸命働くだけだった」。たばこや雑貨、手作りパンのほか、「日本酒も計り売りで、客が一升瓶を持って買いにきた」と振り返る。
8人きょうだいの次女。「男は戦争に行くのが当たり前の時代。寂しさは全くなかった」。兄2人は「赤紙」で召集され、満州と北支(現中国)に飛び立った。住吉神社=奈良町=で出征のお祝いが行われ、長津田駅まで歩いて兄が乗車する汽車を家族と一緒に見送った。
終戦が近づくにつれ本格化する本土への空襲。1945年3月は東京、5月には横浜も標的となった。空襲警報のサイレンが鳴ると「自宅の防空壕に逃げた。寒い時は布団も持ち込んだ」と鴨志田さん。横浜空襲から程なくして8月15日を迎える。終戦当日も共栄会で働いていたが、ラジオから流れる昭和天皇の途切れとぎれの声を記憶している。「何も考えられなかった、戦争に負けたんだ―」。喪失感に満ちていた。
その後、鴨志田さんは1948年に結婚。農業で生計を立て、4人の子どもと孫8人、ひ孫2人に恵まれた。戦後70年経ち、「(孫たちには)戦争に行かせたくない」と言葉少なげに話す。自宅の庭には、色鮮やかな花や新緑が生い茂る。鴨志田さんは「毎日元気で庭の手入れをするのが幸せな時間」と優しく微笑んだ。
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