戦時中、上官が戦死した部下の遺族のもとへ謝罪に行く決まりがあった。「もしもそうなったとき、どのように話せばいいのか――」。21歳の若者には、背負うものがあまりにも大きかった。
1943年5月、秋に岐阜高等農林学校(現・岐阜大学農学部)を卒業予定だった当時19歳の松浦進さん(91)=桂台在住=は、12月1日付で陸軍への入隊を命ずる赤紙を受け取った。「どちらにしろ戦争に行くのであれば、階級が高い士官として行きたかった」と、志願制だった海軍に応募。約17倍の競争を勝ち抜いた松浦さんは10月、横須賀海兵団に入団した。その後8カ月間、甲板掃除など水兵としての基本のほか、砲術班に配属されて対空砲の撃ち方、戦術論などを徹底的に叩き込まれた。
訓練を終えるとすぐに戦地に赴くため、4カ月の基礎訓練を終えた時点で「親に会ってきなさい」と休暇が与えられた。大分の実家に戻り親と顔を合わせ「嬉しかった反面、『死ぬ前提だから会わせてくれるんだ』と思った。この時、本当の意味で覚悟が決まった」
海軍士官は当時のエリート。つかの間の滞在期間、父親は松浦さんを連れて親戚中を自慢して回った。当時は「死ぬ前に親孝行ができた」と嬉しかったという。
44年5月、晴れて少尉となった松浦さんは航空母艦に乗艦予定だったが、空母が撃沈されたため配置転換に。「戦況も悪くなり、多くの戦艦が戻らなかった。もし予定通り乗艦していたら、ここにはいない」。約70人の部下と6基の対空機銃を有する防空隊長として、鹿屋航空基地(現・鹿児島県鹿屋市)に配属された。部下の多くは家庭を持つ30代以上の招集兵だった。「志願兵の自分が死ぬのは仕方ない。紙切れ1枚で戦争に駆り出された人たちを、絶対に死なせたくない」
米軍の通信を傍受し、翌日の敵機襲来を知らされた45年3月17日の夜、ありったけの食材で部下と最後の晩餐を催した。食事を終え「絶対に見ないから本当の気持ちを」。遺書を書かせ、最後に叫んだ。「戦死したら靖国で会おう」―つづく
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