「今でも軍歌は100曲くらい歌えるよ」。綾部省一さん(90)=たちばな台=は、現在でも時折、軍歌の歌集を眺めては口ずさんでいるという。
現在「こどもの国」がある場所には、戦時中、陸軍兵器補給廠田奈部隊・同填薬所があり、当時18歳だった綾部さんは弾薬作りに従事。手榴弾や高射砲の砲弾などを製造する同補給廠は、弾詰めした戦車を、戦地へと送り出していた。
「結局、軍隊に行く身ならば早くいきたい」と、陸軍兵器学校を受験。田奈部隊での経験が生き、約50倍の競争を勝ち抜いて合格した。喜び勇んで入学したが、しばらくして胸膜炎を発症。入学から3カ月後に、強制送還させられてしまった。「せっかく入ったのに。本当に悔しかった」。3日ほどは、布団をかぶって泣いたという。
体調回復後の徴兵検査では無事に合格し、45年2月に滋賀県の陸軍航空隊に配属された。ここでは、新入りが当番制で班長の身の回りの世話をする決まり。食事を届け、洗濯をし、風呂では全身を洗う。「味噌汁に具が入っていない」とビンタされたことも。「食材が足りないんだからしょうがない。何回も叩かれて意識が飛んでも水をかけて起こされ、また叩かれた」。理不尽極まりない世界だった。
3カ月後、広島県三原市糸崎に配属された綾部さん。当時は戦局も悪く「いつ米軍が上陸してきて本土決戦になってもおかしくない」と地上戦に備えた訓練に明け暮れた。8月6日、「広島市にすごい爆弾が落とされてたくさんの人が死んだ」との噂が地元の住民らの間を駆け巡った。それでも上官からは、何も知らされず訓練は続いた。そして15日、巷では終戦の話題一色だったが、陸軍は訓練を続けた。「負けたなんて言ったやつは袋叩きに遭っていた」。結局、解散したのは9月に入ってからだった。
終戦直前は、飛行機も兵器もほとんどなかった。「冷静に考えたら負けて当然」。しかし、当時は上官が全て。「それに、いつも聞かされていた軍歌のせいで日本は強いと思い込んでいた」。言葉にならない思いを胸に、軍歌を口ずさむ。
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