「こわいものなんてない。なるようにしかならないと思っていた」。10歳だった吉村元男さん(80)=青葉台=は、疎開先の小布施(長野県)のお寺で8月15日を迎えた。「玉音放送はよく聞き取れなかった」。敗戦を知ったのは、後に先生から聞いてからだった。
東京・赤坂で生まれ育った吉村さんは、国民学校(小学校)4年生だった1944年夏から疎開で長野県へ。1〜4年生32人のリーダーとして、お寺に集まった200人近い小学生と集団生活を送った。毎朝6時に起き、寝るのは夜10時過ぎ。掃除や畑仕事、まき割り、風呂焚きなど力仕事に精を出し、勉強は下級生の分まで面倒を見た。「先生は厳しくて、怒られるとすぐ竹竿や木の皮で叩かれた」。近くの部落に住む子どもたちとも自然と付き合い、勉強を教える代わりに柿の実をもらったりした。「よくケンカもしたけど、どうすればお互いのためになるか何でもよく考えた」。道具や衣類、履物も「ないもの尽くしだった」という生活。何でも物を大切にし、ナイフ1本でしのいできた。
米空軍の本土空襲が頻発していた春先。実家に一時帰宅していた3月10日夜、大空襲が東京を襲った。家には母親と弟2人。「荷物なんて持つ余裕はなかった」。下駄を履き、頭には座布団を折ったような防空頭巾。焼夷弾が降り注ぐ中、水場を求めて走り続けた。ふと一瞬、かがんだときに記憶を失い、気づいたときにはベッドの上に。陸軍中佐で、松代大本営(長野県)天皇御座所の建設指揮官だった父親が帰ってきた。高射砲の砲弾の破片が右こめかみ付近に当たり、入院1カ月の大けがを負ったことを後で知った。はぐれた弟は隣組の組長に助けられ、後に再会したが、母親と下の弟は行方不明となった。
青葉台に住み40年余。電機メーカー勤務を経て自治会活動に20年尽力してきた。昨夏はつつじが丘小学校で、終戦時の自分と同じ4年生に体験談を語った。
「今は、自由をはき違えている部分もある」。見失われがちな、我慢や助け合いの精神をそっと口にした。
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映画で学ぶ英会話4月18日 |
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