大正末期から昭和の北山田から 第10回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
農機具
戦後三十年代になり、急速に耕耘機(こううんき)が普及した。最初は小型のクボタが普及し、田起こし、代(しろ)かきに威力を発揮していた。これにより、農家の労働はかなり軽減できた。
中型耕耘機が出回ったが、小型ほど利用されなかった。脱穀機、籾摺機は、目覚ましい新機械が出回ってきた。草刈り機の変化も著しい。重さも三分の一くらいになった。
小型耕耘機に接続するリヤカーが運搬具として牛車にかわって使われていた。小型耕耘機はあらゆる機械の動力源として多用された。
機械ではないが、一輪車の普及は畑作業に、その他の小運搬作業にはなくてはならない道具になっていた。 すみれが丘に町が造成されてから、田圃に入れるきれいな水がなく、共同で井戸を掘り、水中ポンプで水を引いた。この頃から生活環境が変わり始め、農村北山田の将来に不安が出てきた。
自動車
自動車は夢のまた夢であった。
とにかく三輪車が農家で使われるようになったことは画期的であった。最初、農家が三輪車を持つことは、経済を考えない無謀なことと言われていた。その三輪車も初めは棒ハンドルで、丸ハンドルになった時は、夢のようであった。今にしてみれば、高級乗用車を取得した気分であった。
三輪車のよいところは、回転半径の小さいこと、燃費がよく、路地でもハンドルの余裕があったことだが、三輪のため、安定は悪かった。
その後、軽自動車ミゼットが普及し重宝したが、この頃、軽三輪が再び見直されていた。
三十年後半頃から、四輪車にかわり、いつしか農家でトラック、乗用車と二台持つようになり、近年は一人が一台持つようになっていった。
当初は自動車のパンクは付きもので、パンク修理も自分で行った。
三輪車の初めは、始動は足で踏み込むキック式だったため、かかとの関節を傷めた者が多かった。
四輪車の始動は、クランクでエンジンを回してやるが、ガソリンの吸い込み過ぎでエンジンがかからず、何回もプラグを掃除してやっと始動させた。
道路の路肩が弱く、落車が多かったが、運転手は見知らぬ者でも手伝いあった。
嫁入りにも三十年代は農協の三輪車が多かった。
運転手が酔っぱらっても車が少ないので事故はなかった。自動車の普及によって東京方面への肥汲(こえく)みも牛車から三輪車にかわった。
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