大正末期から昭和の北山田から 第10回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
道路普請
各谷戸で、道路普請はかかせない共同仕事だった。部落全員道具を持ちより、一日奉仕した。
路肩が弱いので、杭を打ち、土の補給をするのだが、問題は砂利が不足していた。
農協や役所から配給される砂利を大事に農道に敷いたが、とうてい足りない。
農協トラックで多摩川の河原まで砂利積みにいった。
なにしろ、六トン車にシャベルで手積みをする。十人くらいで積み込んだが、ようやく積み終わったら車輪がめり込んでしまった。さらに、無理をしたので自動車のジョイントが折れ、せっかく積んだ砂利を今度は手作業で降ろし、車の修理をした。
部落とは連絡がとれず、近所から自転車を借りて部落まで走り、今日は砂利が来ない旨を伝え、今度は河原にいる者に弁当を自転車で運んでもらい、昼飯を夕方食べた。
結局、車は修理できず、全員シャベルを担いで多摩川から歩いて帰ることになった。夜十時頃、部落にたどりついた。
有線もなく、電話もなく、最善の努力をした結果であり、誰一人文句は言わなかった。乳牛を飼う前だった。
配給する砂利を配分する役員は大変、少しでも不公平にならぬよう気をつかっていた。
石油箱一杯の砂利の尊いこと、今は笑いごとだが、当時は真剣だった。
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