大正末期から昭和の北山田から 第4回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
農業
私が子供の頃は西瓜の栽培が盛んだった。その頃では珍しく、飯田運送のトラックが庭まで入って西瓜を積みにきた。今のニトン車くらいだと思う。西瓜の収穫には近所の方が手伝いに見えていた。夜、蚊帳の中で西瓜の積み込みを姉たちと見ていた。小山田の茂作さん、清助さん、芝生(しぼう)(地名)の庄太郎さん、特に庄ちゃんには、お風呂にいれてもらったり、家族同様にしていただいた。
果樹が多かった。栗、桃で、主に桃は六反栽培していた。父の実家が桃栽培の専門であった関係もある。
桃栽培は手間のかかる農業だ。冬、桃の木の下を鋤(すき)で耕し、枝の剪定作業は父がやるが、枝を集める仕事が大変。学校から帰ると必ず桃畑に行かされ、作業させられた。
春、硫黄黄剤の散布は目は痛くなり、臭いし、我慢して一日手押しポンプを押し続けた。五月は袋掛け作業、一個づつ袋をかけ、リュウキュウという草の乾燥したヒモで縛るのだが、キャタツに乗っての仕事はつかれた。
よく城山(じょうやま)(地名)に手伝いにいったが、従兄弟の貢さんは明るい青年だった。フィリピンの戦闘で終戦間際に、重傷を負いながら切込隊として戦死した。戦後、戦友が何度も切込隊参加を止めたが、負傷の身では迷惑かけると聞かず、行ってしまったと知らせてくれた。
袋掛けは、時期が限られているので忙しい毎日だった。ちょうど田起こしと麦の収穫が重なり、重労働となった。七月、早生(わせ)桃の収穫が始まり、晩生(おくて)が終わるまで一ヶ月かかった。
桃を詰める箱の制作が間に合わず、大工さんをたのんだ。包装は箱の底に敷き藁を薄く敷き、セロハンの化粧紙をその上に敷き、桃を普通六個並べ、一個づつ桜紙で包み、動かぬようにパッキンをいれて出来上がりだが、桃は軽く三本指で持たないと傷んでしまうので神経を使う。仕上がった桃の箱を五箱づつ重ねて梱包し、ゴムタイヤの馬車で東京まで出荷した。
たしか北山田で桃栽培農家は六軒だったと思う。
この桃栽培も昭和十九年、主食を作らなければ非国民だというので、強制伐採させられた。
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