大正末期から昭和の北山田から 第6回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
地神講(じじんこう)
春、秋の彼岸には農家は必ず仕事を休み、地神様のおまつりである地神講をした。
当番制により回り持ちで宿を受け持った。娯楽もない時であり、農繁期前の骨休みとして休憩できる、先代の生活の知恵ではないか。
当番の家では、春はおはぎ、秋はじざい餅を作ることに決まっていた。両隣が手伝い、ご馳走を作り、昼食から夕方まで、飲み食いして情報交換の場として楽しく過ごした。
近年はこの行事を行うところが少なくなったが、私らの組では休みなく続いている。
大山代参
昔は徒歩が交通のたて前であり、お駕篭(かご)は特殊階級だけの乗り物でした。
何時の頃からの伝承かわかりませんが大山参りが行われるようになり、当然のこと大山には徒歩で行き、御神酒を頂戴して下山してきたようです。毎年行くには代表を選び代参してもらうことになり、現在に伝わっております。
横浜市ふるさと歴史財団により解明されたところによりますと、当時の御神酒社二基が揃っているのは、北山田だけということが判明しました。
平成三年、北山田で保存すべきか、市に移管して保管をまかせるべきか話し合った結果、傷みがひどく、管理も出来ないと判断し、市に移管いたしました。
四年の現在、御神酒社は市の文化財で燻蒸(くんじょう)処理され、その後、京都の文化財修復研究所に送られ、多額の費用で修復されました。現在はセンター北駅前の横浜市歴史博物館に陳列されております。
私が記憶している大山代参の行事は盛大でした。
当番らしい方数名が白装束に身を固め、金剛杖をつきながら、山田富士の頂上まで歌は忘れましたが、よく小泉峯吉さんが音頭をとって登り、頂上でお祈りの行事が行われました。それから御神酒を戴き、倶楽部の庭で部落二派に別れ、大きな樽五〜六本に用意した水を双方がかけあいました。
これは雨乞いの行事と思います。
大山代参は家内安全、五穀豊穣、町内安全を目的としており、毎年八月上旬に行われております。
|
|
|
|
|
|
|
<PR>