1945年6月、集団疎開で家を発つ前の晩のこと。兵庫県武庫郡魚崎町(現・神戸市東灘区)の魚崎国民学校5年生だった田中久子さん(78歳・汲沢在住)は夜中にふと目を覚ますと、静けさのなか薄暗い明かりのもとでアイロンがけをする母・アイさんの姿を目にした。2カ月前には大阪で空襲を受けた祖母が防空壕内で焼死。戦況は日に日に厳しさを増し、「せめて子どもだけでも無事で」と疎開を勧める父・卯一さんに対し、「まだ小さいのに」と、7人兄弟で末っ子の久子さんと離れて暮らすことを拒んでいたアイさん―。その背中は寂しくて泣いているように見えた。
翌日、大勢に見送られて疎開先の鳥取県へ汽車で出発。戦争中はどこへも連れていってもらえず、久々の遠出は遠足気分だった。京都を過ぎてしばらく経ったころ、車掌の指示で強制的に窓を閉めさせられたのは、側の大人たちから「鳥取砂丘には日本軍の秘密基地があって見てはいけないから」と聞かされた。長旅の末、夕方に到着。夜は歓迎会があり、地元の青年団による怪談で盛り上がり、騒ぎ疲れて眠りについた。
しかし、楽しい思い出もそこまで。学校では地元の子どもたちに「疎開もん」と冷たい仕打ちを受け、帰宅すれば食事の支度の手伝い。食糧難で、おかずは畦道で摘んだ雑草がほとんど。ただでさえ貧弱なジャガイモの皮むきは慣れない包丁さばきで身がなくなってしまうため、ガラスの破片でカリカリと削った。
衛生状態も劣悪。風呂にはほとんど入れず、頭には毛じらみが寄生し、夜は布団で飛び跳ねるノミをつぶしてからでないとかゆくて寝つけない。ノミに刺された部分は膿み、そこにハエが卵を産みつけると栄養失調で抵抗力が落ちた体にウジがわいた。隣村に疎開していた男児は疫痢で亡くなるなど辛い毎日で、遠くで響く汽笛を聞いては「家に帰りたい」と涙した。
そんなある日、兵庫から焼け焦げた手紙の束が届く。魚崎の町に何かあったのでは。父、母は無事か。後に久子さんの実家は寸でのところで空襲被害を免れていたと知るが、その時点で情報は一切なし。家族を想い、不安で号泣した。
その後まもなく終戦を迎えたが、戦後の混乱で汽車の手配が難しく、帰宅できたのは2カ月後。しばらくぶりの魚崎には米軍の車が行き交い、『鬼畜米英』と教え込まれたアメリカ兵に子どもたちが「ハロー」とにこやかに手を振る。そんな光景を、まるで浦島太郎の気分で眺めていた。
* *
田中さんは生涯学習で得た技術を活かし、6年前に疎開体験をまとめた絵本『わたし11さい』を出版。現在も戦争を後世に語り継ごうと、要望があった地域の小学校に語り部として通う。『兵隊だけでなく、子どもたちも戦っていたのだと分かった』。そんな感想が活動の励みだ。
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