連載 かねさわ地名抄 第11回「乙舳町」 文・NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
安藤広重の金澤八景「乙艫(おっとも)帰帆(きはん)」には、「沖津舟 ほのかにみしもとる梶の おとものうらに かへる夕波」という京極高門の和歌が記されています。
「おとも」は「新編武蔵風土記稿」に町屋村の小名「乙鞆」として記録され、乙鞆原、乙艫とも書いたといいます。「乙」は粋(いき)という意味、「鞆」はその形が鞆に似ていたからという説があります。
鞆とは、弓を射るとき左手首の内側に付ける丸い革製の道具で、弓弦が肘を打つのを防ぎ、弦音を高く鳴らします。昔の金澤の海岸線は、鞆のように丸い形をしていたと言われています。
瀬戸内海国立公園の一つ、広島県福山市にある「鞆の浦」は、古代より潮待ち・風待ちの港と知られており、万葉集では大伴家持の和歌にも詠まれています。この場所も、海岸線は丸い形をしており、鞆の名がつけられたと考えられます。
1939(昭和14)年、金澤洲崎町、金澤野島町から分かれて「乙艫町」が新設され、1975(昭和50)年の住居表示施行の際に町名を変更し、現在の「乙舳町」の表記となりました。「舳」とは船のへさきのことで、船の後部の意の「艫」から真逆の意味の漢字にとって代わっています。
大正から昭和の初めには、東京湾内でも有数の海水浴場(乙艫海岸)として賑わい、海の家がぎっしり立ち並んでいたといわれます。現在、海岸は海の公園に生まれ変わっています。
「乙鞆」は、「乙艫」「乙舳」と表記を変えてきましたが、発音は今も受け継がれ、歴史を感じさせます。
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