4月13日に浜空慰霊祭を行った横浜海軍航空隊浜空会世話人代表の 加藤 亀雄さん 逗子市在住 87歳
語り継げ、空に散った戦友
○…「あの日天気が良けりゃ、死んでましたよ」と、忘れられぬその日を振り返る。1945年6月10日、鹿児島県指宿(いぶすき)を発ち、零式水上観測機で沖縄へと向かった。任務は「特攻」。「親兄弟を守るために早くぶつかってやろう。その気持ちだけだった」と回想する。途中、奄美大島付近への台風接近のため基地に戻った。指揮官の指示による帰還だったが、上官には「命が惜しいのか」と罵られ、立てなくなるほどのリンチを受けた。「大勢の仲間が靖国に行った。生き残って申し訳ない気持ちでいっぱいだった」。その思いを胸に、毎年行われる浜空慰霊祭の世話人を務める。
○…群馬県生まれ。中学3年になると飛行場の部品工場へ動員された。「別工場の女子と、土手で昼食を取ることが楽しみだった。たわいもない会話だけだったけれど」と目を細める。喧嘩もたくさんした。盆踊り大会で隣町の女子に話しかけていると、その町の男子の反感を買って殴り合いに。「先生にバレるたび、卒業させねえぞと脅かされていましたよ」と笑う。その後、海軍航空兵の練習生となり土浦へ。激しい訓練と体罰の中で、海軍兵としての精神を培うこととなる。
○…終戦後は横浜ゴムに勤務。ゴム製品卸の会社を立ち上げたこともあった。転々と職を変えたのち、義兄弟の紹介で化粧品会社の営業マンとなる。これが天職だった。代行店を県内十数社に増やし同業者にヘッドハンティングされた。「騙しや口先のセールスじゃなく、とにかく正直だったことが良かったんだろうなあ」と振り返る。化粧品会社は75歳まで勤め上げた。
○…3年前に前立腺がんを発症。余命4年と宣告されるが、ホルモン治療が奏功した。「体力的に厳しくなってきたが、健康でいるうちは、慰霊を続けたい」。近年はかつての仲間も高齢のため少なくなってしまった。「だからこそ語り継がねばならぬ」という意思で、活動を続ける。
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