連載 かねさわ地名抄 第32回「瀬ヶ崎」 文・NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
瀬ヶ崎はその名の通り、逗子方面より野島に向って続く丘陵が海に突き出した岬です。岬の稜線は天神の祠があったことから天神山脈と呼ばれ、武蔵と相模の国境で、その峠に傍示堂がありました。
先端の部分は室ノ木で、平潟湾に突き出た天王崎が瀬ヶ崎との境界になっていました。その中ほどが瀬ヶ崎村集落の中心で、豊崎稲荷社が祀られていました。瀬ヶ崎の云い伝えに「瀬ヶ崎や小村で18軒、寺が2軒で20軒」とあるそうです。寺2軒とは大寧寺と勝福寺とされています。
大寧寺には源範頼の墓と伝えられる五輪塔がありました。江戸時代に書かれた『新編鎌倉志』に「大寧寺は瀬ヶ崎の南にあり、海蔵山と号す。蒲御曹司源範頼菩提寺也、開山千光国師今建長寺の末寺なり、本尊薬師、是をへそ薬師といふ」とあります。兄の源頼朝に疎まれ伊豆修禅寺で討たれるところ、瀬ヶ崎の裏の浦郷に逃れましたが、追跡が厳しく瀬ヶ崎で自害したとも、伊豆で殺され、首をこの地に埋葬したとも伝えられています。大寧寺は1943(昭和18)年海軍航空隊の拡張に伴い片吹町に移転を余儀なくされましたが、瀬ヶ崎の範頼伝説は広く語り継がれています。
大寧寺の旧地は現在の関東学院小学校グラウンドあたりでかなり大きな寺域でした。一方、勝福寺は円覚寺の末寺でしたが廃寺に。詳しい記録はありませんが、中世有力寺院の置かれたこの地は極めて重要な役割をもった土地でした。俗にいう「六浦湊」とはここ瀬ヶ崎をさしました。またかつての瀬ヶ崎は現在の六浦東1、2、3丁目にわたり広い範囲をさしました。
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