第3回「角田武夫の絵にかけた思い」 寄稿 「金沢百景」 文/神奈川県立金沢文庫 山地純
角田武夫は画家になりたかった夢を諦め、地元で教員として暮らしました。
好きだったのは絵と読書。読書後に感想ではなく小説の場面や筆者を絵に描き、そこに揮毫をしてもらいました。政治家から小説家まで、その数は200名を越えています。絵が好きだったからこそ、読後の絵であったのでしょう。
金沢八景については江戸時代の浮世絵などを模写していました。『金沢百景』を描いた理由が書かれています。「変る変る、どんどんかはる。わが若かつた頃の金澤には夏島があった。烏帽子岩があった。塩田もあった。瀬戸橋の内側も、まだ海だった。今はどうだ。(中略)金澤八景も、やがては名のみとなるだらう。(後略)」角田武夫は得意の絵筆でふるさと金沢も残してくれたのです。
神社・寺院を描いた『金沢巡礼』には小泉山弁天社という一枚があります。この弁天社、今は存在していません。海軍技術廠金沢支廠を創設するために泥亀新田奥の小泉側から続いていた丘陵部を切り崩した際に、この弁天社の山も一緒に姿を消してしまったのです。地元を記録した一枚が本当に貴重な絵となったのです。場所は、現在の釜利谷東1丁目住宅地(かつての小泉住宅)奥の変電所付近かと思われます。
■訂正=前回の横須賀鎮守府検印の日付の表記についての説明に誤りがありました。11.6.16は昭和11年6月16日です。訂正してお詫び申し上げます。
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