寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【1】 港南区遺族会 新井 淑雄
太平洋戦争で日本本土への空襲は昭和17年4月から始まり、本格的には19年秋からでした。
東京大空襲は20年3月10日未明、東京の下町本所区、深川区を中心として、B29爆撃機が300機以上、2時間半のじゅうたん爆撃が続きました。死者が10万人、負傷者が11万人、100万人以上の人が家を失いました。
私のこと
私の祖父母は明治30年代に埼玉県から深川に移ってきました。以前は表大工町(おもてだいくまち)と呼ばれた町民たちの街です。父はここで生まれ育ちましたが、浅草生まれの母は関東大震災で家屋の下敷きになりながらも九死に一生を得たとのことです。
昭和18年、家族は男女4名ずつの8人家族でした。祖父、父、叔父(父の弟)、私と、祖母、母、妹2人の生活です。9月に父が出征し、一年生の私は日の丸の小旗を片手に誇らしげに歩いて両国駅まで父を送りましたが、最後の別れとなってしまいました。叔父は軍需工場に徴用され、翌19年10月に69才の祖父は老衰で亡くなりました。
ちょうどその頃から帝都への空襲がはじまり、警報が鳴るため、ラジオの「大本営発表…」が聞こえるようスイッチを入れたままでした。私は母の実家の埼玉県八代村に年の暮れから一人縁故疎開に行きましたが、家族がバラバラに別れて暮らすのは辛い。死ぬ時は全員一緒だ、との母の強い意見で3月に入り東京へ戻り、その日を迎えました。
「明日は3月10日の陸軍記念日だから、きっと大戦果を挙げるね」と友だちと別れた夜に大惨事を迎えることになりました。当時、日本の家屋は木と紙と土で造られ、しかも密集しており、鉄筋コンクリートの建造物は公共の役所、図書館、学校くらいでした。そこにアメリカの戦略爆撃機B29が無差別に都市を爆撃してきたのです。
(続く)
|
|
<PR>
|
|
|
|
|
|