寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【2】 港南区遺族会 新井 淑雄
3月10日未明、アメリカの戦略爆撃機B29が無差別に都市を爆撃してきました。
B29は3942機つくられ、日本に延べ1万7000機が16万トンの爆弾を投下しました。
開発された焼夷(しょうい)弾は火災を起こすことを目的として、中身は引火すると激しく燃え上がるゼリー状の油脂ガソリンでした。投下してしばらくすると本体が分解し、内蔵されている36本の焼夷弾がばらまかれたのです。
清澄庭園に逃げ込む
夜半に警報が鳴り、母が1歳の妹を背負い、片手に手荷物を持ち、祖母は年長組の妹と衣類の包みを両手に抱えました。私は教科書を入れたランドセルを背負い、防空頭巾を学帽の上からかぶり、水筒を持ち、5人は着の身着のままの姿で退避しました。
家の前の清洲橋通りを渡り、100m先の園内に入って池のほとりに座りこみました。通りは火の手が上がり、人々が逃げこんできます。まさに瞬時の行動が一家を救ってくれました。
荷物を持った人が続いてきます。燃える火の明るさがあるとはいえ、足元は暗く、池の中に転がり落ちると、上から人が雪崩れてくる状況で自力では上がれません。また、余裕のある人もなく、誰も助けることはできません。溺れた人はそのままでした。
運を天に任せ
私たちは早目に逃げこみ、座りこんだのが幸いしました。とはいえ、火事とは違い、いつ、どこに焼夷弾が落ちるのか、分かりません。助かる保証もないのです。庭園内にある講堂の屋根に火の手が上がり、青白い炎がメラメラと上がり、中に入った人たちの泣き叫ぶ声が聞こえても何もすることができませんでした。
ただただ、運を天に任せ、家族5人が固まって火の手を見ながら時の過ぎるのを耐え忍んでいました。
(続く)
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