寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【6】 港南区遺族会 新井 淑雄
いなかの子の夏
私は田宮村立国民学校の3年生、妹は1年生になりました。通学は男組と女組に分けられ、地区内の6年生や皆さんに紹介されました。「疎開に来た3年生の新井です。よろしくお願いします」と仲間入りです。
1学年1クラス、田舎道を30分程ハダシで歩き登校口で足を洗って教室へ入ります。50名位のうち8〜9名が疎開の生徒でした。
空襲のない学校生活は快適でした。当時の教科書は全国統一で、上級生のお下がりで十分でした。2学期には級長になりました。級長は今の学級委員でしょうか。先生に「起立」「礼」と号令をかけます。学期が変わると交替し、3年生の2学期、4年生の1、3学期に先生から「級長を命ず」と指示書をもらいました。その後、国民学校が小学校となり、制度も代わりましたが、5年生までに何度か級長や副級長になりました。
生活面は女家族の貧乏生活です。弁当持参の時、お米が少なく、今思うと炊き込みご飯は、煮汁が包み紙の新聞紙に沁みこんでしまったり、ふたを開けると量が少ないご飯が片寄ってしまい、隙間が空いていることもありました。疎開もんは非農家で貧乏暮らし。少年期の悲しい記憶です。
3年の1学期は、まだ戦時中です。この半年間にさまざまな事がありました。振り返るとこのようになります。【3月】家に戻って大空襲に遭い、命からがら逃げのび、農家で疎開暮らしへ。【4月】別々だった家族は5人揃って木小屋で生活。新しい学校生活も始まる。【5月】農家を手伝い、馬のエサ・ワラを刻み、河原の草刈りを覚える。【6月】屋外の生活。木に登り、川に入り、自然を満喫。【7月】馬洗い場で泳ぎ、川へ飛び込み1日中河童になりました。【8月】終戦による世相の変化、でも自分の世界で遊びと泳ぎ、蝉を追い真っ黒になる日々。
(続く)
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