国内18件目の世界遺産として6月21日に登録が決まった群馬県の「富岡製糸場」。三溪園(中区本牧三之谷)の創設者・原三溪は、1902年から36年にわたり同製糸場を経営しており、その経営と継承に焦点をあてたシンポジウムが10月に企画されるなど、改めて三溪の功績に注目が集まっている。
原は蚕の品種改良や設備の改良などを通して生糸産業の発展に多大な貢献を果たしている。
シンポジウムを企画する原三溪市民研究会では「製糸場に三溪が関わっていたことは、ほとんど知られていない」と話す。市観光振興課では、世界遺産登録を受け、三溪の功績について「広報に協力していきたい」と積極的な姿勢を示す。
富岡製糸場は1872(明治5)年に建設された代表的な官営工場。全国から士族の子女などを集め、フランス人技師の指導のもと洋式製糸技術を養成した。主な目的であった全国への技術普及に目途がつき93(明治26)年、三井家に払い下げられた。その9年後に原家2代目、三溪の「原合名会社」が経営を引き継ぐことになる。
初代が北関東に地盤
原が富岡製糸場の経営を手がけたのは、初代の善三郎の存在が大きい。善三郎は群馬県に近い埼玉県児玉郡渡瀬村(現、神川町)の出身で、家業として製糸業を営んでいた。そのため、宇都宮や前橋など北関東で生糸を売り歩いており富岡をはじめ地域に広い人脈を持っていたという。
貿易業に徹する方針を決めた三井家は譲渡先を模索。製糸経営は、繭の供給者である養蚕農家と結びつきの強い「農村工業式」のため、北関東に地盤を持つ原家に白羽の矢が立った。三井家の益田孝(三井物産初代社長)は、当時横浜一の豪商となっていた三溪と生糸販売で既知の仲であり依頼した経緯がある。
三溪が富岡製糸場を経営した36年の間に、蚕の品種改良や機械設備の整備をはじめ、繭を育てて工場に出荷する養蚕農家への指導など、生糸産業の技術革新に取り組んだ。また勤続者の優遇や保健衛生施設の整備、運動会や遠足の開催など、従業員の労務環境も重視したという。三溪園の参事を務める川幡留司さん(78)は、三溪が富岡製糸場を経営するにあたり「元々製糸業を営んでいた善三郎さんの出身地に近い、原家への信頼があったのでは」と説明する。
三溪は製糸場で莫大な富を生んだが、後継ぎの急死や景気の悪化などを受け1939(昭和14)年に経営を片倉製糸紡績(現、片倉工業)に譲った。87年まで操業し閉業。2005年に富岡市に譲渡された。シンポジウムは10月11日午後2時から横浜美術館で入場無料先着200人。(問)【携帯電話】080・8708・5985
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