本牧 気まぐれ歴史散歩 【4】 『本牧の出洲幻の台場』
嘉永6(1853)年6月、ペリー艦隊が浦賀に上陸し大統領親書を渡しました。日本にとって突然のことと思われがちな黒船来航ですが、幕府はだいぶ前にオランダからその情報を得ていました。たび重なる外国船の来航に浦賀奉行所も幕府に海防強化を願い出ていましたが、対策がとられぬままその日を迎えたのです。
出迎えた浦賀奉行与力・中島三郎助らは黒船の中を案内されましたが、中島らは既に蒸気機関などについて十分な知識を持ち、黒船来航に備えていたことが、ペリー艦隊の日誌からも伺えます。中島らの報告を受けた浦賀奉行は、現況では黒船と勝負にならないと確信し、海防強化や洋式軍艦の配備など具体的な案を老中・阿部正弘に上申しました。
その案には「本牧は天然の要害なので、本牧の出洲に台場を建設し、沖に軍艦4・5艘を配置すべき」との表記もあります。
出洲とは海に突き出た砂浜のことで、現在の大鳥中学校から本牧南小学校にかけて広がっていた砂浜あたりではないかとも言われています。昭和30年代後半まで海苔の養殖も行われていたこの広大で遠浅の浜に台場は築造されませんでしたが、水戸藩主徳川斉昭の五男で後の15代将軍慶喜の兄・池田慶徳が藩主を勤める鳥取藩が、この出洲に陣を設けて、大砲も設置し、ペリー再来航に備えました。
次回は明治時代の外国人リゾートビーチをご紹介します。
(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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