今年10月1日、保土ケ谷は区制施行から90年の節目の年を迎える。そこで今回は、特別企画として保土ケ谷区が産声を上げた前後の街がどのような様子だったのかを懐古する。
関東大震災が転機
大正12(1923)年9月1日に起きた「関東大震災」。これを機に横浜域に大きな転機が訪れた。復興のスピードに地域格差が生まれ、当時、横浜市に属していなかった保土ケ谷町や鶴見町、西谷村、旭村など2町7村の復興は中々進まなかった。
2町7村が市に道路・上下水道の整備などを要望するなど、復興促進へ向けた動きを見せる中、昭和2(1927)年3月1日、内務省地方局長から神奈川県知事あてに横浜市域拡張に関する通達が出された。
これを受け、知事は県と町村の共存共栄の立場から横浜市の編入合併を推奨するため、保土ケ谷を含む2つの町と西谷を含む7つの村の代表らを県庁に呼んでいる。
実は合併に向けた動きはこの1年前からあった。保土ケ谷町が音頭を取り「合併運動協議会」を開催。ここで合併促進運動を決議している。この時、合併に際しては、これまでの都市計画事業を完成させること、「区」を設けることなどを希望条件としていた。
3月31日、最後の町議会の後、町時代の功労者として岡野欣之助氏が表彰された。4月1日の合併当日は、橘樹神社と神明社において報告祭が行われた。合併により保土ケ谷町と西谷村の大字は「町」として独立。帷子町・神戸町・保土ケ谷町・岩間町・仏向町・坂本町・下星川町・和田町・上星川町・川島町の10カ町が誕生した。
編入時の人口は3万1026人
編入時の人口は3万1026人、世帯数は6610世帯。岩間町に設置された市役所の出先機関である保土ケ谷出張所の庁舎は、鉄筋コンクリート2階建てで当時としては斬新なものだった。
合併により市域が拡張されると、市は区の設置を国に稟議。8月になると内務大臣から、許可が下りた。これを受け市は区制準備委員会を組織し、区が取り扱う事務、諸規定などを名古屋市の例を参考とし検討が進められた。
初代区長は笠原尚太氏
市域を5つに区分し10月1日に保土ケ谷区、鶴見区、神奈川区、磯子区、中区の5区が誕生。保土ヶ谷区の初代区長には笠原尚太氏が就任した。
機構は庶務係、税務係、戸籍係、会計係の4係。この機構は現在の区役所組織機構の原型となった。
関東大震災を機に横浜市に編入し産声を上げた保土ケ谷区誕生から90年が経ったいま、区内には昨年12月1日時点で9万3947世帯暮らす。編入当時3万人余りだった人口は20万5千人を超えるまでになった。
〈参考文献〉保土ケ谷区史
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