―区制90周年記念―【連載【1】】 鶴見90年のあゆみ 「江戸時代後期」
【生麦事件】
鶴見の歴史を語る上で、避けては通れない出来事の一つが、日本史上にも名を残す、1862年(文久2)発生の「生麦事件」だ。
時は江戸時代後期、幕末の動乱の最中、1853年の黒船来航以来、開国へ向かおうという転換期だった。
薩摩藩主の父・島津久光の一行が江戸から京都に帰る途中、武蔵国橘樹郡生麦村で、馬に乗るイギリス人商人ら4人が列に乱入したとして、藩士に切られた英国人殺傷事件。4人は大名行列には土下座するという文化を知らず、命を落とした商人のリチャードソンは、誤って馬首を久光の乗る籠に向けたことで切りつけられたと言われている。
この事件で、4人のうち1人が死亡、2人が重傷を負った。事実を知ったイギリス側は、幕府に10万ポンドの賠償金、薩摩藩には2万5千ポンドの賠償金と下手人の処刑を要求。当初、幕府、薩摩両者とも拒否していたが、翌年にイギリス艦隊が来航すると、幕府は一転、支払いを決定。一方の薩摩は拒否し続け、薩英戦争に発展した。
◇ ◇ ◇
当時、厳しい緘口令が敷かれたという事件。少年時代に目撃し、鶴見村の戸長を務めた黒川荘三が1885年、リチャードソンが倒れた場所に私費を投じ「生麦事件碑」を建立。150年を超えた現在も、地元住民らの手で守られている。
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