69年前の5月29日、東神奈川付近は米軍のB29編隊517機による空襲に見舞われた。体験者の一人、神奈川区いまむかしガイドの会の顧問・大平修さんに当時の様子を語ってもらった。
1945年5月29日に、東神奈川など市内5カ所を攻撃目標とする「横浜大空襲」があった。午前9時20分ごろから約1時間にわたり44万個の焼夷弾が投下され、8千人もの命が奪われた。被災者は31万人。当時の市民の約半数だ―。
ガイドボランティアとして活動する大平さんは、69年前の出来事を今も鮮明に覚えている。当時、県立横浜第二中学校(現・横浜翠嵐高校)の1年生で、桐畑に住んでいた。空襲に気付いたのは、友人3人と登校中の台町付近だったという。「警戒警報が鳴って帰宅すると、グアムから大編隊がやってくるという。大急ぎで身支度を整えた」。東神奈川方面に目をやると、空は真っ黒い煙に覆われていた。「ザー」という音とともに焼夷弾があちこちに落下。水をかけた布団に身をくるみ、家族と一緒に火の粉を払いながら青木橋の方へ逃げた。あちこちから集まってくる人々は皆、はしごで線路上に避難。本覚寺の本堂が燃えるのを目の当たりにして、「もう終わりだと思った」。
その後、大平さんは九死に一生を得たが、一家は無一文に。終戦までの間、伝手を頼って雨露をしのいだという。玉音放送は瀬谷の親戚宅で聞いた。「日本が負けるとは思わなかったが、戦争が終わって安心した」と当時を振り返る。「平和が一番。体験者は少なくなってきたが、少しでも多くの人に伝えていきたい」。時折、目頭を押さえながら平和を訴えていた。
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