一般社団法人 横浜インドセンターの新会長として活動する 神谷 光信さん 六角橋在勤 81歳
常に進化、そして感謝
○…横浜とインドとの幅広い分野での交流を目的として、2009年に設立した横浜インドセンター。2代目会長の打診を受けた際は「インドと取引のある方にお任せしたい」と固辞したが、次期会長と目されていた故人への恩返しとして今年2月、130の企業・個人からなる団体のトップに就任した。数々の要職を歴任し「人との縁」を大切にしてきた、この人らしい心意気だ。
○…横浜市中区生まれ。戦時中に木工所を立ち上げた父の代から続く「ハマっ子」。戦火の激しくなった1944年、学童疎開で国民学校の仲間たちと湯河原へ。数カ月間、神社で寝起きしたが、「とにかく食べるものがない。ひどい空腹で家が恋しくなり、横浜へ帰ってきた」。そして一家で移り住んだ広台太田町で、横浜大空襲に見舞われた。「父から滝の川に飛び込むよう指示され、何とか生き延びられた」
○…新制中学の1期生として六角橋中に入学した。小遣いのほとんどが本代に消えるほどの本の虫。特に池波正太郎作品が好きで、今でも繰り返し読んでいる。横浜翠嵐高校では蹴球(サッカー)部の練習後に、柔道場で汗を流すのが日課だった。立教大に進学したものの、泣く泣く父の会社で働くことに。仕事は大忙しで大学に顔を出すのはごくまれ。「追試で何とか卒業できたよ」と振り返る。
○…大学4年で結婚し、2男1女に恵まれた。会社は駐留米軍の家具調達から船舶内装へ。そして現在は、住宅関連産業とテナントビル業を柱としている。「大切なのは顧客満足度をどれだけ高められるか。人材は宝だ」と力説する。中小企業振興に功労があったとして、2013年春の叙勲で旭日双光章を受章。今年4月には、消防団の器具置場建設用地を横浜市に寄附し、林市長から感謝状が贈られた。晩酌が生きがい。「翌朝になるとアイデアがわいてくる」と微笑む。「感謝の気持ち」が元気の源だ。
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