市政報告 大空襲72年経っても… 日本共産党横浜市会議員 宇佐美さやか
1945年5月29日、アメリカ軍による横浜中心地域に対して行われた爆撃により、東神奈川駅周辺も火の海と化しました。
「東京からも、東神奈川駅が燃え、切符が廃となり空に舞い上がるのを見た」と、区内に住む男性から聞かせていただいたことがあります。横浜大空襲の日のことです。
この横浜大空襲によって被災者31万人以上。行方不明者14157人、このうち8千人〜1万人の犠牲者が出たと資料にあります。つまり、6千人以上の方が空襲の業火で行方がわからなくなったままだそうです。
三ツ沢墓地には、名前もわからない犠牲者が眠っているということを聞きました。
記録を残すこと
反町に住む女性は、現在89歳。「今でもあの時のことは覚えている。青木橋に居た。空襲警報が鳴り、10分もしないうちに爆撃が始まり、市電に乗っていた車掌も運転手もいつの間にか居なかった。『早く逃げなさい!』と怒鳴られて、横浜駅の西口に逃げようか東口に逃げようか考えて、必死で走って逃げた」と当時のことを話してくれました。
2016年11月30日、子安小学校の移転・新築場所となっている現場で地下埋設物の調査をしていた際、地中から焼夷弾2発が発見されました。71年経っても、地下を掘ると、まだ戦争の爪痕を見ることができます。残念ながら、この焼夷弾は、産業廃棄物として処理されました。
私は、戦争体験者のみなさんの体験談や戦争の爪痕をしっかり記録として残し、後世に伝えていくことも横浜市として必要であると考えます。横浜の子どもたちに、この悲しい出来事を直接聞ける機会をたくさん作ってほしいと市に要望していきたいと考えています。
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