高津物語 連載第八四四回 「落語『大山詣り』まとめ」
四回にわたり落語「大山詣り」を連載した。
私は「高津区民祭」の折、大山街道ふるさと館イベント・ホールで、若手落語家の熱演する『大山詣り』を聞きに行ったが、どういう訳か全く面白くなかった。
こんな筈はないと思って、ある時書店の書棚を物色している時、ちくま文庫『志ん朝の落語』(古今亭志ん朝・京須偕充編)全集全六巻が目に入った。
その第四巻、粗忽奇天烈の巻、三番目に「大山詣り」があり、勇躍求めて愛読した次第である。
巻頭「編者のマクラ」という短文に京須氏が「古今亭志ん朝といえば、明るく歯切れのいい口調、リズミカルなテンポのよさが、いつも第一にあげられる」「志ん朝の真価は何といっても人間造形のたしかさにあった。芝居でも映画でもない。落語という素顔の一人芸の世界で人間をいかに描出するか―。人間が生き生きと聴き手に伝わるならば、名作落語はいつの世にも新鮮な笑いと感動を生む。そのためには言葉を選び、磨き、表現を端的にすること。その言い方や表情に千変万化の工夫をこらすこと。」
「ただし、そんな努力の為に堅苦しい印象を与えないこと。照れ症の志ん朝さんは高度の発達した表現を見事なルックスの蔭に隠したのだ」とある。
私事になるが、今から五十年前、日本橋近辺の銀行に勤めていた妻から「室町周辺勤務の商店主達五、六人に交じって、若き志ん朝や円楽等の落語を聞く『若手落語家勉強会』を開いていた」という話を聞いた事があった。
羨ましく思うと同時に、勉強家志ん朝の一面を知って嬉しかった。
若くして逝った志ん朝の早逝が、本当に惜しまれる。
落語『大山詣り』は、上方落語の『百人坊主』の江戸版説が有力で、明治期までは『百人坊主』の題でやるのが、主流だったらしく戦後も八代目可楽は『大山詣り』を『百人坊主』の題でやっている。大山でなく、大和の大峰山に詣でる話で大峰山が相模大山に変わる変わり様は、五代目古今亭志ん生迄遡る様である。
|
GO!GO!!フロンターレ3月29日 |
|
|
GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
|
3月29日