高津物語 連載第八六六回 「『いやのめ』その四」
『溝口水騒動』久地村本文中にある「久地『いやのめ』は二・二キロ上流にある…」の謎めいた記述?
多摩川宿河原堰堤で取水されたニヶ領用水は五つの堰があった。
小田急線に近い所にあったのがニヶ領用水本川の榎戸堰である。
ここから五ケ村堀・中田堀・上菅生村への三堀が分れていった。
榎戸堰組合には、登戸・上菅生・長尾・宿河原・堰・久地の六ヶ村が属していた。榎戸堰が廃止になった時期は不明(昭和後期ではないかと言われる)。
現在、榎戸堰のあった辺りは、両側をコンクリート壁を高くして護岸、トンネル状の暗渠の上を、府中街道が通っている。
その昔、五ケ村堀から分水した、ニヶ領用水本川に沿って流れてから、やや北に離れて行く「長尾堀」があったという。
長尾村(『新編武蔵風土記稿』)に「南の方を神木長尾と云、山丘多くして渓谷有り、されば近き頃、土俗改て谷長尾とよべり。この辺地形高低有て旱損の患あり、北の方を河内長尾と云、河内は多摩川の内と云る事にや。此処は山丘の根に沿うて平かなる地なれば、用水の便りは宣けれど、多摩川の水溢れば水損の患いあり」と怖ろしい文言が並ぶ。
右の記述により、長尾堀は多摩の横山の山裾を流れいやのめの麓で、ニヶ領用水となって久地分量樋に流れたものと思われる。
が、ニヶ領用水本流と支流が台風シーズンに増水して溢れ出し大水になった時、長尾堀も現在の南武線久地駅辺りから、物凄い濁流が津田山(七面山)に襲い掛った。その結果、津田山は現在の様な西と東の二つに分断された。後年その真ん中をJR南武線が通い、南武沿線道路が出来たと、私には考えられるのだ。
一方、氾濫した濁流の一部は、JR久地駅南側を襲い、現在の堰・久地両三町目、久地二町目を濁流の渦に巻き込み、かすみ堤で漸く止まった。
が、今度は多摩沿線道路の無い時代、多摩川本流に向かって物凄い勢いで家屋等を押し流した。毎年「台風シーズン」になると繰り返される悲劇だった。
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