高津物語 連載第九二四回 「無堤防の改修」
明治四十三年八月の多摩川大洪水で津田山が真っ二つに切断され、押し出された土砂が二ヶ領用水に沿って坂戸、大谷戸、新城、上小田中、下小田中、小杉、苅宿、上平間、鹿島田、川崎に迄、流失した土砂を押し運んで行った。
そして、鹿島田を右折して、矢上川経由鶴見川方面に流れていた多摩川の流れを、一挙に東海道川崎脇を抜ける流れに変えていった。
この影響で最も大きな被害を受けたのが、多摩川の氾濫を予想出来ず、特に多摩川が大きく湾曲した部分で操業を続けようとして、多摩川低地に工場を作った横浜製糖、東京電気(東芝の前身)だった。
が、多摩川の流路が変わり、操業予定用地は多摩川の洪水で一面に浸水し、こんな筈ではなかったと、川崎から撤退しようという極論も出る始末だった。
が水運と鉄道の便が良くしかも地価が安いという条件は何物にも代えがたく、盛り土をすることで、洪水を防ぐ手段とした。
こうして川崎町長石井泰助の斡旋で加瀬山の一角を買収、切り崩した土をトロッコで運ぶ大掛かりな工事を行ったが、これに要した費用は、買収価格を上回り敷地一坪に付き、約二円を要したという。
結局この敷地内に、本社社屋も建設し、東芝は川崎駅周辺の一大企業となった。
が橘樹郡の町村の中で御幸村の一部は旧慣習によって無堤防地帯で同村及び中原・日吉・住吉地区は多摩川洪水で最大の被害を受ける地帯であった。大正二年八月、多摩川は再び増水して幸区は大洪水に見舞われた。
九月二〇日、御幸村斎藤町長外十一村代表は「御幸村上平間、中丸子、下丸子に渉る一千五百六十一間の堤防を新設、上堤防と接続する」請願書を県に提出した。神奈川県はこの請願で東京府に築堤交渉を行ったが、旧慣習尊重をとる国の方針で交渉は不調に終わる。
かくて神奈川県庁に殺到する「アミガサ事件」が起き、上平間天神前から中原村上丸子間の多摩川無堤防地区は、大正五年九月三十日に新堤防が完成し、十二月竣工式が挙行された。
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