高津物語 連載第九三〇回 「宇奈根 その二」
川崎市高津区宇奈根地区は一九一二年町村合併によって宇奈根村本村の東京都世田谷区宇奈根と切り離されて神奈川県川崎市に編入された。その昔は多摩川対岸の世田谷区宇奈根と村政を同じくし、川崎側を土地登記簿謄本に「山野」、「山谷」、「散家」(『新編武蔵風土記稿』)と呼ばれて来た。
昔から多摩川の川辺に沿って西側に、古くから住む人々がまとまっている。
東側半分は、川崎市から準工業地域として指定を受けている各種メーカーの工場や倉庫が並んでいる。
宇奈根地区の生業は、さまざまに変化しているが、昔から宇奈根村の河原氏が養蚕を、昭和二年頃から始めていたという。ほとんどの家が、養蚕・桃や梨の果樹栽培に携わった。桃はオオクボ・ハクトウ・ハクオウ・タチバナ・デンジュウロウの品種が作られ、中でもオオクボが多く栽培されタチバナは桃の早生だった。
梨は長十郎・二十世紀が主に栽培されていたが、戦時中、この地を訪れた東条首相の一言で、みんな伐採された記録が残っている。
昭和二十年か十年代に掛けて養鶏に携わる家は8軒の軒を数えた。
その他砂利採取事業等が主なものであった。
河原家総本家は、細川屋敷に出入りし、薪炭指定業者だった誇りがある。
河原金藏家は宇奈根の「河原コンクリート」「河崎組」「河原工務店」と協同で、三つの「河」を合わせた「三河組」を立ち上げたことがあった。
土木事業や、川普請、道路工事を請け負ったという。
高津消防団団長の河原金藏さんの父君は宇奈根村本村の世田谷区立砧小学校まで、多摩川の「宇奈根の渡し」で渡って通学したという。雨の日、雪の日も着物を頭に乗せて多摩川「宇奈根の渡し」を越して行き、大水の日以外は休まず、精勤賞を貰ったことが自慢だったそうだ。
明治の終わり迄、東京都世田谷区であった川崎市高津区宇奈根、総本家の古文書が「風呂の焚きにされてしまった」事は、何とも残念だ。
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