高津物語 連載第九四二回 「青陵岩精死去」
青陵岩精は、田沼時代から寛政・文化の時期に長く京阪に住んで、商業資本の目覚ましい台頭を眼の前にし、「学問ト云ウハ古ノコトニ詳シキガ、ヨキ学問トイウ者也」(「稽古論」)と規定し、「タトエドノヨウナル立派ナ論ニテモ、今ノ世ニ用ニ立ヌ論ハ畢竟ムダ議論也」(「万屋論」)とも断定する。
溝口にやって来て丸屋鈴木七右衛門宅に宿泊し、直々に伝授した事柄は様々であるが、青陵は「天ト云モ、理ト云モ、神ト云モ、同ジ事ナリ。無ト云ウ事ナリ、サナケレバナラヌ筋ト云ウ事ナリ」と述べ、「理ノアル事ハ騙サルルガ良キナリ。疑ワシキ事ハ疑ウガ良キナリ。理ノナキ事ハ信ゼヌガヨキ也。理外トイウ事アルハズナシ」(「天王談」)と論じてみせた。
青陵が理を、歴史的思考と合理的思考、及び合理的精神と把握したことが、青陵岩精に老子以下の古典を徹底した独自性に於いて、主体的であると共に、現実的な実学の基礎とし、前向きの解釈を可能ならしめた理由である。更に経世の大目として、天の時、地の利、世の流行の三つを挙げる。つまり、気候・風土・風俗・物産の客観的自然条件と世の流行、即ち時代の変遷を重く見るのである」(『日本思想体系本解説、蔵並省自』)。
当然の事ながら「変人」とみなされた青陵岩精の形而上学的な建策が、為政者に取り上げられたことはない。青陵岩精が死去したのは文化十四年(文政元年・一八一八)五月二十九日鈴木七右衛門は相談相手を失くす。それから三年後、文政四年七月六日、夏の干ばつの激しさに溝口村名主丸屋鈴木七右衛門は、この日を「天の時、地の利、世の流行」がこの日とばかりに青陵岩精の教えを忠実に守り、二ヶ領用水川崎堀の水の流れを、七右衛門一人の判断で止めてしまう。これが川崎領二十ヵ村の農民と溝口村との間に起きた、二ヶ領用水の分水をめぐる水騒動である。誠に明確な理由がこれと言って無い、二ヶ領用水川崎堀の水の止め方であったが、全ては青陵岩精の教えに忠実に従っただけであった。
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