高津物語 連載第九五五回 「『府中県道』の開通」
「府中県道」は私達の家が自主的に立ち退くことによって、溝口から久地大圦樋まで全面的に開通したことはすでに述べた。
又、昭和十五年初頭から太平洋戦争を挟んで、昭和三十年までの実に丸十五年間、農業土木技術者平賀栄治(四八才)が、久地円筒分水の建設と平瀬川の津田山トンネル敷設、二ヶ領用水の灌漑(かんがい)工事の多摩川右岸農業水利改良事務所長を命じられて、太平洋戦争期間中も土木技師として懸命に努力した事は、今もただただ頭の下がる思いがある。
二ヶ領用水、中野島、宿河原両取水堰改良工事、多摩川、二ヶ領用水の全手の土手を護岸コンクリート化する工事が、平賀栄治によって第二次世界大戦の最中に行われていた事実を、何度もいう様だが、決して忘れてはならない事である。
この理由は、東条首相の持論である「米の増産」に応え、川崎の穀倉地帯である末長、上小田中、下小田中、新城、千年、子母口、久末、明津等々の水利を良くする狙いもあったろうし、そればかりか、新しく開通した「府中県道」の両側の水溝は、全面的にコンクリート護岸され、護岸前の風景とは、大きく変わったものであった。
高津小学校は府中県道沿いに、木を植えて境とし、校門右側に「銀杏の木」が、今も健在である。
関東大震災で校舎が倒壊した事実を受けて、瀬戸内海近くの校舎のように、中廊下を挟んで左右に一寮・二寮・三寮・四寮の校舎が並んだ。
四寮左校舎から新校舎に出られた。後に給食が始まるとプラタナスの木を切り倒して、「給食の調理室」が出来た。五寮右側が教員室、校長室が並び、教職員用トイレと用務員の山口さん宅、伝いに講堂、図書館に続いていた。講堂脇の校庭に「紀元二千六百年記念植樹」された記念樹「ヒマラヤ杉」が今も健在で、二宮尊徳の銅像も校庭の片隅に建っている。
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