高津物語 連載第九八七回 「野津譲医師」
昭和十五年皇紀二千六百年―全体主義の盛り上がり最高潮で、軍国主義が強く叫ばれた時代、日本の公衆衛生を中心として、新しい日本の厚生行政のナンバーワンとして、野津先生は注目を集めた。
大正十二年(一九二三)東大医学部卒業、同大学院で血清研究の後、小児科教室助手を勤め、昭和六年ロックフェラーフェローに選ばれハーバード大学公衆衛生部留学、昭和九年同大学卒業。帰国後、米国の研鑽を活用して日本の遅れた予防医学の充実に尽力した。
昭和十年、東京都中央保健所学校衛生部長。
やがて近衛文麿内閣時代、国民の健康問題、学校体育の在り方、医療の在り方(新医界改革)等、政治的には国民健康保険組合問題、また軍戦力も体力に負う事、青年体力の向上も体力増強が基本だと説き、「乾布摩擦」「ラジオ体操」を提唱した。
広島県立広島一中(現県立国泰寺高校)卒の先生の同期生に、後に広島カープ創立者となる谷川昇が居た。
同校サッカー部で野津先生とプレイ、昭和十五年当時は、東京市役所に勤務、昭和十五年(一九四〇)開催予定の東京五輪招致用のポスター、特製アルバム等相当部数作成し、世界各国の五輪委員会宛に発送した。メイン会場は、世田谷区駒沢の駒沢競技場、選手村は川崎市の津田山を予定していた。
野津先生は津田山に厚生省所管の「健康増進指導者養成訓練道場」を造り、自らも東京麻布から転居して津田山に住み付いた。
現在の国道二四六号線の開通工事の為に爆破された場所等に、先の「青年職員健康増進指導者訓練道場」を造って、全国から健康増進に携わる多くの青年男女、保健婦、小中学校教員が集められ、指導者訓練道場の指導を受けた。これは当時、東京市役所にいた谷川昇、東急の五島昇、日本体操協会を中心として東京市、日本体育協会、厚生省等が決めたものだった。地元の高津町は無関係だった。
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