連載第一〇一〇回 高津物語 「久本小学校副校長 鈴木善孝先生の死」
地元旧家から、お借りしてきた『慎一郎抄』がある。
昭和三三年十月発行者は昭和十一年度神奈川師範卒業生の川崎在職者である。
略歴に鈴木先生は昭和三三年三月十八日、勤務先の高津小学校へ登校途次、小田急線から南武線登戸駅の乗り換えた車中で、暴漢に刺され、同日午後一時四十三分逝去された。享年四一才であった。
鈴木先生は、現在の麻生区栗木に生れて、厚木高校、横浜国大を卒業、稲田小学校に奉職。後昭和二九年四月に、高津小学校に転勤された。
当時、高津小学校は霜島雄三校長の元、文部省の国語・算数研究指定校で、鈴木先生は教務主任として大忙しであった。副校長には五島正典先生(後久末小学校長として校歌を作詞作曲された)が「君の指揮した後ろ姿が、今幻として現前に浮かび」と追想し、昭和二九年鈴木善孝教務主任、宮崎元、高橋静雄先生達が協力して、高津小学校は昭和二六、七年頃から音楽会を学期に二回やる程、音楽に力を入れていた。
そんな中で、音楽が好きな子供を中心に、一日に二時間から四時間位練習を行い、夕食を学校でとる事もあったといい、夏休みも返上して毎日、午後練習するなど、特別に音楽、合唱に力を入れていた。
昭和二九年NHK全国ラジオ唱歌コンクールの課題曲「峠路」(霧だ。さ霧だ、峠路は…)にエントリーした。夏休みも、普段は午後三時からで、夜食も学校で食べることもあったという。
結果、唱歌コンクール川崎予選で第一位になり、神奈川県予選で第一位、関東甲信越大会で第一位になりそして全国大会に出場して第二位という輝かしい成績を収めた。
その後、鈴木善孝先生は久本小学校に副校長として栄転され、音楽教育に独特の見解を以て望まれ、久本小学校もまた、全国学校唱歌コンクールの名門校となったのも、ご案内の通りである。南武線登戸駅で何があったかは知る由もない。心無い青年に、倒された。残念至極だ。南無阿弥陀仏。
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