連載第一〇一三回 高津物語 「岡家歴代記」
久本の旧家、岡家の歴史を今に伝える記録が『岡家歴代記』で、岡家初代は岡東栄と云い、享保四年(一七一九)に長崎からやってきて、本名を緒方、俗名は岡姓を名乗ったという。
岡家初代岡東栄は、幼児から医術を志し、熟年になるに従って長崎を出て医術を以て諸国遍歴を始めた。
「乞われる人ありて、此処「久本」に草鞋(わらじ)を脱いだ」と『岡家歴代記』は記している。
岡家四世、岡道栄は、医家の伝統を継承し、自宅診療に飽き足らず、明治二年(一八六九)に『医学稽古所建立願書』を、地方行政官庁の神奈川県知事宛に提出している。また、その翌年にも『医道勧学場建立願書』を矢継ぎ早に提出していて、岡道栄の情熱が、如何に真面目で、真剣であったかが判る。
この願いが入れられないと知れると、岡重孝は、戸長「田中屋」鈴木直成が明治一八年に死去したので、初代高津八カ村組合村(溝口・二子・久地・下作延・久本・坂戸・諏訪河原・末長)、高津村村長に立候補し、明治二二年四月一日見事「初代高津村村長」に就任した。
「私は若い頃大阪の高津の宮に参拝したことがあるが、同所は仁徳天皇皇居跡で、風光地形がこの辺によく似ている。村名は「高津」でどうか」と提案。
「高き屋の登りて見れば、煙た津、民のかまどは賑わいにけり」(仁徳天皇御製)から「高津」を提案したといい、奇しくも両説共に仁徳天皇関連の土地であったことから「高津」が採用されたという(上田恒三著『高津村風土記稿』)。
「高津村」の名称制定から、初等教育の整備充実をはかり、大山街道沿いに「高津村組合戸長役場」(現『大山街道ふるさと館』)を造って、高津町政の拠点とした。
こうした岡家の家訓は、伝統的に岡家に引継がれ、東京市大森区新井宿馬篭文士村から、日本画家川端龍子の長女、千草を妻に迎えて、自宅前の敷地千坪に岡医院の病棟を新築した。
岡家は、地元の久本町会長を勤め、俄然、高津村を指導する。
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