連載第一〇一六回 高津物語 「二子亀屋」
二子『亀屋』創業は古く、元禄時代(一六八八〜一七〇三)と古い。本館は大山街道に面し藁葺(わらぶき)屋根二階建多摩川鮎魚と共に栄えた。
元屋号「玉亀楼」案内絵葉書に「弊店ハ創業三百余年玉川ノ草分鮎魚御案内ノ元祖」で「鮎魚御案内ハ古クハ時ノ将軍ノ鮎魚ノ御用ヲ命ゼラレ近クハ明治四一年ノ七月畏レ多クモ照憲皇太后陛下ノ鮎魚御行幸アリ。明治二九年及数回皇太子妃両殿下ノ御行啓アリ。明治四四年ニハ皇子三殿下ノ御行啓。明治四五年ニハ閑院宮殿下ノ御宿泊セラル」とある。「弊店ガ三百余年間営業シ来リタルハ創業以来親切ト勉強トヲ旨トセシメタ各位ノ御引立ヲ蒙リシ為ナレバ尚一層懇切ト勉強ヲ専一ニ従来ノ御引立ニ酬(むく)ヒ申候」と。新館は、明治中期に三年の歳月を費やして建てられ、縁側の欄間には当時珍重されたギャマン(色ガラス)を嵌め込む等贅を尽くした造りだった。門を入ると間口七メートル程の障子の八枚入った玄関があり、土間を上がると十二畳の間があり、その奥に十畳の客間四つが田の字型に並んでいた。左の方には、裏に抜ける土間を挟んでお勝手があり、その右奥に、蔵前座敷を通じて土蔵に通じていた。十二畳間の右階段を上がると、二階に三つの客間があった。本館と新館は、渡りで繋がり、新館の床がやや高く、新館側に三段の階段が付いていた。
亀屋裏に、梅・桃・茶畑があり、茶摘みの頃は人を呼んで茶を摘んだという。
亀屋前に太い欅の大木、根元に大山参りの檜造りの常夜灯が置かれていた。二子神社入口には、子育地蔵があり、二二日は縁日で賑ったという。
昭和一二年(一九三七)、九代目小池又左衛門の時に廃業して、翌年取り壊された。
歌人吉井勇は「多摩川の亀屋の酒に酔い痴れて だんなたりやと舞ふは誰が子ぞ」と十一首の歌を残している。久米正雄も「船から上がって、鎮守の森みたいな群高木を目当てに土手を上がって行くと成程、亀屋という料理屋が見え、田舎の庄屋みたいな家だ」と書いている。
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