連載第一〇一七回 高津物語 「二子玉川音頭」
作詞 松村義人
作曲 杵屋左三郎
振付 藤間壽右衛門
1 玉川よいとこ
玉川二子
鮎の住むとこ
小粋なところ
鮎は瀬にすむ
鳥や木にとまる
人は情のもとに住む
ヨイヨイ ヨイヨイ
ヨイヤサ
2 高津よいとこ
名のある所
稲毛三郎の城の址
諏訪の河原にや一本松
3 久地の梅林
夕日が暮れる
二子花街紅火が灯る
紅い灯に黒髪てらし
雪の肌をば化粧する
郷土史の大先輩、上田恒三氏『高津村風土記稿』の『二子花柳界の盛衰』から引用した。
昭和六年(一九三一)二子三業組合―料亭・芸者置屋・待合(本来は茶室に付属した建物の一つ、客が茶室の空くのを待ち合わせる場所だった)が制定し、芸者に宴席で歌わせた音頭であるという。
二子料亭には、多くの有名文人が来ていた。二松学舎創立者で漢学者の三島中洲が一八七六年(明治九年)二子亀屋に来て「一茅楼岸(ぼうろんがん)に臨みて、而してそばたつ亀亭」と詠んだ。続けて「主人酒食を具え、遊客を待つ」と詠んで、二子亀屋を満喫している。
一九二四年(大正一三年)六月号『随筆』(随筆社)に、文士達が同社の主催で玉川で遊んだ特集に出ている。
未だ、玉電は来ていないので「多摩川の渡し」で二子玉川から渡しで渡って「二子亀屋」で会合している。同行者は田山花袋・近松秋江・里見弴・岡本一平・久米正雄・佐々木茂策・宇野浩二・中村武羅夫・吉井勇・葛西善蔵・久保田万太郎・牧野信一等々錚々たる文士二二人、そのうち十四人が随筆を寄せている。溝口亀屋と並んで、二子の亀屋は、大いに都会人に遊興を提供した。「二子新地」とは、本来は、遊興の新地であった。
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