連載第一〇二一回 高津物語 「宿屋」
寛永十九年(一六一九)溝口「亀屋」が創業した。
寛文九年(一六六九)二子・溝口村が矢倉沢往還の宿駅指定を受けた。公用旅行者用に常時伝馬人足常駐の命が下った。
街道なら宿舎や専従問屋役の配備が必要だった。
二子村は年寄大貫権之丞が南二子本村から光明寺を七軒百姓と共に移転して、公用旅行者宿泊所とした。
多摩川の鮎は平安時代から、人々に親しまれ多くの人々に歌われた。
余りの美味のため天保十四年(一八四三)徳川十二代将軍家慶以降は、「御留川」の指定を受け、将軍専用の「献上鮎」とした。
このため多摩川鮎は禁漁となり、人々は相模川の鮎を食すこととなり、朝早く「鮎担ぎ歌」が、大山街道溝口宿に流れた。
明治以降は、旧幕府時代の御禁制が解かれ、二子や登戸は、鮎釣りで賑った。
玉川電車が開通すると、夏の行楽シーズンには、多くの鮎釣り客で賑った。
とりわけ、玉泉亭・柳屋・喜月楼・亀屋等の立派な旅館や料理屋があり、大いに賑った。川向う「柳屋」の「柳青丸」は、定員五十人乗で便所付きという豪華船のため、大いに流行った。明治末期から大正初期に掛け「二子橋」の架かる前までが皮肉にも、多摩川が一番賑った時期であった。
当時は花火大会もなかったが、親子で水浴びを楽しむ、貧しいながらも、水入らずの親子団らんがあったように思える。
現在、遊泳禁止の多摩川は、この頃、子どもたちの天国だった。父親の背中に掴まって泳いだ楽しい思い出がある。
多摩川が近くにあることが、どんなに素晴らしいことであるか、あの頃何時も思っていた。思えば、いい時代だった。
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