高津物語 連載第一〇〇〇回「コレラ」
「コレラ」とは…
「Cholera(英語)虎列刺(漢語)と書き、コレラ菌の感染による急性伝染病をいい、コレラ菌の作用で腸粘膜上皮の電解質が破壊され、激しい嘔吐、米のとぎ汁状の大量の下痢をきたし、強い脱水状態を呈する。重症の者は、血圧降下、筋の疼痛けいれんを伴って死亡する」と『広辞苑』にある恐ろしい病気である。
近くで起こっては困る極めて迷惑千万な病気であることに、間違いない。
ところが、明治一五年(一八八二)九月二日、橘樹郡末長村(現川崎市高津区)でコレラ騒ぎが起こった。
現在のように、高津町立火葬場のない時代であるから、例によって末長村のはずれの火葬場で、コレラ病で死んだ人の遺体を、他所から運んできて、火葬にする、したいというのである。
「コレラ患者は全身から毒気を発生する。もし、コレラ病患者を焼けば、その毒気が煙となって舞い上がり、末長村の人達に取り付く」。当時の人達は、固くそう信じて疑わなかった。
だから…そうそう簡単に火葬を許す訳にいかない。
という訳で、三十人程の村人が、コレラ病で死んだ人の火葬を阻止するために、火葬場に集った。
プラカードや鉢巻をしていたかどうかは判らないが…何やら不穏な動きがあり、と察知した川崎警察署高津分署から数名の警察官が駆けつけて集まった村人達に説得を始めた、という。
当時、上下水道は整備されず、人々は井戸水や二か領用水の水を生活用水に使用していた。川崎町の「水売り」も、多摩川や二か領用水から汲み上げた水を使っていた。
明治十九年(一八八六年)の川崎町のコレラ大流行で大師河原村の用水堀使用禁止がなされた。住民が患者の汚物を用水路で洗い、伝染を広げたのが原因だった。
子どもの頃、六カ村堀で茶碗を洗っているのを見て、上に上ってゆくとオムツを洗う場面に出くわして驚いたことがあった。当時としては止むを得ない事だったかもしれないが、本当に不衛生極まりない話だった。
天然痘・コレラの予防。昔は大問題だった。
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