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麻生区版 公開:2014年4月11日 エリアトップへ

麻生の歴史を探る 麻生の古道(2) 義貞伝承道

公開:2014年4月11日

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白山神社(はかな谷伝承地)
白山神社(はかな谷伝承地)

 元弘3(1333)年上野国で挙兵した新田義貞の鎌倉攻めは軍勢十万騎といわれ、分倍河原(府中)で幕府軍を破り、軍を鎌倉街道”上ノ道”に進めますが、各地に義貞に味方する武士が蜂起。鎌倉防衛の前線だった多摩丘陵は、街道はおろか村の里道まで軍馬が押し寄せ、麻生の地は戦乱の渦に巻き込まれてしまいます。この地の鎌倉攻めの道筋は麻生地内全域に及んでいます。現東柿生小学校の地にあった王禅寺が焼き払われたという伝承はこの折の戦いで、多摩川を関戸、是政で渡河した義貞軍は稲城から金程、王禅寺へと進攻したと予想されます。その際義貞軍は現真福寺白山神社あたりで幕府軍の抵抗にあっています。それは、この地に戦死した人を葬ったとされる”はかな谷(はかの谷)”の伝承があり、それを裏付けるように貞治2(1363)年銘の板碑が発見されていることから、地元武士との戦いであったかとも考えられます。その道筋は現三井団地の子供文化センター、稲荷森稲荷の急坂を降りますが、この坂を”峰坂”と呼び今も古道の跡を幽かに残しています。

 王禅寺が焼かれ、白山の戦いのその折、この峰坂に隣接する”籠口の池”から白龍が現れ、軍勢を呪ったとする伝承があります。もともとこの地は鎌倉に近く、北条恩顧の武士農民が多く、国の体制(建武中興)がどうであれ、他国の軍勢が村の暮らしを脅かすのには、大きな憤りがあったのでしょう。

 この現東柿生小学校からの道筋は鶴見川を渡り、寺家、恩田、青砥と前稿尊氏道と並行、鎌倉街道中ノ道に至りますが、鶴見川を越えた寺家に周囲一丈八尺、推定樹齢600年の小金松と呼ぶ大松がありました。この地は現在横浜・町田・川崎市の接点で古い歴史を持ち、フランス式地図には稜線に太い道筋と思われるものが示されています。惜しいことにこの松は昭和22年に枯死しましたが、”鎌倉街道見透かしの松”ともいい、前稿早野の鉄火松・並木松と一連の松だったと思われます。この義貞の鎌倉攻め道は、早野で鶴見川本流に添う”かながわみち”に接します。この”かながわみち”は神奈川〜八王子を結び、鎌倉街道が南北(縦線)の道であるのに対し、東西(横線)に走る幹道でした。神奈川で鎌倉街道下ノ道、荏田・市ヶ尾で中ノ道、そして早野で尊氏・義貞道、岡上で早ノ道、町田の野津田で上ノ道に交差する鎌倉街道の連絡道です。鶴見川本支流には有力な鎌倉御家人の多かったことから幕府の主要道でもあり、義貞の鎌倉攻めにはとりわけこの道には軍馬の往来が激しかったのではないでしょうか。

 時は移り、北条幕府は亡び、御家人は力を失い、”かながわみち”は応永23(1416)年鎌倉公方、関東管領の争いから再び軍道化が始まります。そして北条早雲(後北条)の関東進出(1491年)時には、小机、茅ケ崎、荏田、亀井、小沢(三輪)等の城を増改築。この道は北関東から小田原を守る前線にその役割を変え、これらの城の存在は鎌倉期に勝る争乱をこの地に与えています。

 そして徳川幕府が成立(1603年)して江戸時代、この道は日野往還(現横浜上麻生線)と呼び、鶴見川流域の村々(明治12年で久良木郡44ヶ村、都筑郡69ヶ村、南多摩郡121ヶ村)の横浜〜八王子を結ぶ産業道路となり、後年麻生、能ヶ谷で津久井道(現世田谷町田線)と合流、町田市の野津田、多摩市の柚木を経て八王子へのシルクロードとなっていきました。参考資料:「地図で辿る思い出のふるさと(柿生岡上の百年会)」「歩け歩こう麻生の里(麻生老人クラブ)」「川崎市史」「横浜市史」文:小島一也(郷土史料館相談役)
 

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