柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第60回天保の飢饉王禅寺村はその時どうした(2)後編
【前号から続く】
天保4年(1833)、相模国高座郡深見村では、若衆が狂言や手踊りを行い、他の村人に手ほどきをしたと言うことで、江戸の伝馬町の牢につながれたという記録があります。また、川崎宿の米穀商に対応する通達が出ています。前回紹介した志村家文書もこうした背景があり、関東取締代官より通達を受けた名主が「請書(うけしょ)」という形で、関東取締代官や八州廻に提出したものと思われます。いずれにしても、この関東取締出役(八州廻)は江戸を中心とする関東地方に大きな力を持って、各地に出向いては厳しい取り締まりを行ったのでした。
以上、江戸時代後期の各地域の様子を見てみますと、多くの村々では冷害・水害・干害などの自然災害はもちろんのこと、流通する米穀の価格の暴騰にかなり手を焼いていたようです。
ですから、天候不順や作物の凶作が始まると、それに伴って米価暴騰という一種の人災も発生し、農村では百姓一揆が、都市では打ち壊しが発生し、社会全体が争乱の状態となるわけです。
幕府が一番危惧したのは、治安の悪化と幕府への強い批判であったと思います。したがって、八州廻りのようなやや危ない要素を持った者を使ってまで、徹底的に治安の安定に努めたのでしょう。
次回は、このような厳しい米価暴騰と飢饉に対して、王禅寺村名主志村弥五右衛門が、どのような対応をとろうとしたのか考えてみたいと思います。
参考史料:志村家文書「差上申御請証文之事」天保7年(文:板倉)
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