神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
麻生区版 公開:2015年5月22日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第60回天保の飢饉王禅寺村はその時どうした(2)後編

公開:2015年5月22日

  • LINE
  • hatena

 【前号から続く】

 天保4年(1833)、相模国高座郡深見村では、若衆が狂言や手踊りを行い、他の村人に手ほどきをしたと言うことで、江戸の伝馬町の牢につながれたという記録があります。また、川崎宿の米穀商に対応する通達が出ています。前回紹介した志村家文書もこうした背景があり、関東取締代官より通達を受けた名主が「請書(うけしょ)」という形で、関東取締代官や八州廻に提出したものと思われます。いずれにしても、この関東取締出役(八州廻)は江戸を中心とする関東地方に大きな力を持って、各地に出向いては厳しい取り締まりを行ったのでした。

 以上、江戸時代後期の各地域の様子を見てみますと、多くの村々では冷害・水害・干害などの自然災害はもちろんのこと、流通する米穀の価格の暴騰にかなり手を焼いていたようです。

 ですから、天候不順や作物の凶作が始まると、それに伴って米価暴騰という一種の人災も発生し、農村では百姓一揆が、都市では打ち壊しが発生し、社会全体が争乱の状態となるわけです。  

 幕府が一番危惧したのは、治安の悪化と幕府への強い批判であったと思います。したがって、八州廻りのようなやや危ない要素を持った者を使ってまで、徹底的に治安の安定に努めたのでしょう。

 次回は、このような厳しい米価暴騰と飢饉に対して、王禅寺村名主志村弥五右衛門が、どのような対応をとろうとしたのか考えてみたいと思います。

 参考史料:志村家文書「差上申御請証文之事」天保7年(文:板倉)
 

麻生区版のコラム最新6

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 3月29日0:00更新

  • 3月1日0:00更新

  • 1月19日0:00更新

麻生区版のあっとほーむデスク一覧へ

コラム一覧へ

麻生区版のコラム一覧へ

バックナンバー最新号:2024年3月29日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook