柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第73回 麻生の寺院 麻生不動 前編文:小島一也(遺稿)
毎年1月28日、麻生区下麻生の周辺は「麻生不動のだるま市」で大変な賑わいになります。ですが、この麻生不動の本当の名は「明王山般若坊不動院」。王禅寺の末寺で、またの名を「木賊(とくさ)不動」といい、室町時代、下麻生の村人が木賊の茂みの中から不動明王像を発見、火伏の信仰としたのがその始まりとされています。
不動明王とは火焔を背にして目玉を剥き、怒りの表情を物凄く顕した仏様で、人の災いの一切を救ってくださるとするもので、「木賊」は、今でもこの地方によくみられる「シダ科」の管状の茎を持つ、火にくべても燃えない常緑の多年草ですが、この麻生不動について新編武蔵風土記稿は、不動堂の欄で「村の乾(西北)にあり、五間に六間東向なり、不動は長さ八寸の立像なり、王禅寺村王禅寺の持」とのみ述べ、その縁起、木賊については記されておりません。王禅寺に残る文書には「寛政の頃(1790)下麻生村の願いで王禅寺の持となった」旨が記されているといい、その創立の年代、縁起については謎になっています。
地元伝承によると、このお不動様は応永年間(1400)鎌倉公方の庇護によって開かれたとされ、また一説にはこのご本尊は大山不動尊の開山願行上人が鎌倉二階堂覚園寺の像を三体一緒に造ったものとも言われ、調べてみると願行上人の不動創建は文永十一年(1264)で不動像は高さ約1・7m余で鉄の鋳造。覚園寺は永仁四年(1296)知海上人の開山で、不動像のそれは「火焼(黒)地蔵」と呼ばれており、2m余の木像で、注目すべきはこの二体とも国の重要文化財(国宝)であることで、この大寺とともに麻生不動が伝承されていることは興味があるところです。
ちなみに、この麻生不動の草葺きのお堂(江戸中期建立と思われる)は、老朽化のため昭和43年10月再建されましたが、不動明王像(鉄鋳造高さ8寸)を祀る土蔵造りの内陣は堅固な造りで手を付けず不動像を安置したと言われています。【次回へ続く】
参考文献:「新編武蔵風土記稿」「川崎市史」「下麻生の歩み」「川崎市郷土資料」
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