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麻生区版 公開:2016年10月14日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第89回 シリーズ「麻生の歴史を探る」 北条氏関東支配(2)〜小机支城 前編

公開:2016年10月14日

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 小机というと今は新横浜で、何か遠い感じがしますが、私の子供の頃は同じ都筑郡下鶴見川に沿って一本道(現横浜上麻生線)。現横浜アリーナ辺りの田圃にアメリカ渡来のざりがに(海老蟹)が繁殖、これを捕りに遊びに行ったものです。城の在る所は鶴見川の本流が小机の丘陵に阻まれて大きく北へ湾曲する場所で、高さ約40mの断崖、二つの山塊が並び立つ天然の地形で、城下には渡船場があったといい、陸路に加え舟行きの便もある要地で、鎌倉時代、この地の豪族小机昌安と呼ぶ御家人が館を構えたのがその始まりと言われています。

 小机城を中心とする支城の配置を見ると、その多くは鶴見川本支流を防衛に利用構築されており、小机城の東、わずか1Kmに篠原城、矢上川には加瀬、矢上城。その上流に伊田、有馬城。早渕川には大曾根、山田、茅ケ崎、荏田城。本流沿いには佐江戸、川和、池辺城。恩田川には榎木(久保)、成瀬城などで、これらの城の特徴は小規模ながら、相互の距離は平均2〜3Km、いずれも要害の地を占め、交通の便もよく、小机城を守る支城の配分がよくなされています。

 それではこれらの城の構築はいつ頃で、その城将は誰だったのでしょうか。調べてみると多くの城の歴史は鎌倉時代からで、この地に進出した北条氏(早雲、氏綱)は、土地の豪族を大切に扱っております。そのいくつかを拾ってみると、「篠原城」は金子出雲守と呼ぶ土豪の館で、金子氏は小机衆となり、その子孫は現在の金子家(はま屋)と言われます。「矢上城」を新編武蔵風土記稿(以下、風土記)で見ると、矢上村旧跡館跡の欄に「保福寺を建立せし中田加賀守の住せしところ」とあり、中田氏は土地の土豪に間違いなく、また「加瀬城」は太田道灌の逸話通り上杉氏によって小城が築かれていたのではないでしょうか。

【次回へ続く】
 

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