神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
麻生区版 公開:2016年11月25日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第91回 シリーズ「麻生の歴史を探る」北条氏関東支配(3)〜小沢ヶ原 前編

公開:2016年11月25日

  • LINE
  • hatena

 こうして設営された小机城を主城とする支城は鶴見川の中下流にあり、その上限は荏田城で、麻生、南多摩の地にはその名を見せません。そのことは、北条氏のこの地方の領土経営は鶴見川下流小机、佐江戸、茅ヶ崎辺りを中心に始まったということで、前稿小沢城を巡る戦乱は過去のものとなり、麻生には亀井城、南多摩には沢山城がありますが、地理的に八王子城傘下となり、行政の上では小机庄となっていきます。

 北条氏(氏綱)がほぼこの地方(相模・武蔵)を勢力下としたのは大永四年(1524)と言われます。その後、その子氏康が若冠16歳の初陣で享禄三年(1530)上杉勢を小沢ヶ原で徹底的に破りますが、関東支配の途は厳しく北条氏が小田原城を本城として、「小田原役帳」に見る支配体制が確固たるものになるのは、氏康(三代)から氏政(四代)へ代替わりの永禄二年(1559)で、それは伊勢宗瑞(早雲)が枡形城へ進出してから約50年の年月を費やしています。この間、北条氏が領国を支配してきた特徴は、「虎の印判状」に代表される夥しい文書と、「代替え毎の検地」そして、「小田原衆所領役帳」に依る家臣団の掌握と謂われ、それを差配するのが北条家を権威づけた文書です。北条家文書には花押が印された「判」物と呼ぶものと、北条家を代表する「禄寿応穏(ろくじゅおうおん)」(意味:人民よ皆平和に暮らそう)と印された朱の方形印の上に、虎がうずくまる「虎の印判状」があります。この印判状は小田原城の当主から、寺社、百姓にまで通達される直接支配が特色だったようです。

【次回へ続く】

 参考文献:「川崎市史」「稲城市史」「戦国大名北条氏とその文書」

文:小島一也(遺稿)
 

麻生区版のコラム最新6

あっとほーむデスク

  • 3月29日0:00更新

  • 3月1日0:00更新

  • 1月19日0:00更新

麻生区版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年3月29日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook