柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第99回 シリーズ「麻生の歴史を探る」沢山城と七面山 前編
新編武蔵風土記稿岡上の阿部の原の欄に「三輪村に城山と云う所あり・・・(略)・・・如何なる人の守りし城か伝えず、その人の家老に阿部某がおり、その人此処に住せし処」と記し、三輪村城山の欄には、「中央にして少しく西へ寄れり」とのみ記され、そして同村七面堂の欄に「村の中央なる山上にあり二間三間の堂なり、神体は女体にて岩上に立てる状なり・・・(略)・・・百姓与兵衛の持なり、この堂は彼が先祖の居跡に造りしものなり・・・(略)・・・此邊城山なる小字あれば古壘の跡なるべし・・・」と述べて、風土記稿発行の文政年間(1818〜29)に古壘が在ったとのみ記されています。
それが、その存在が一躍明らかになったのが、前稿で述べた八王子城主氏照の虎の印判状による「近郷の馬を集め兵糧米を沢山城に備蓄せよ」の指令で、緊迫した北条政権末期この城の存在価値をよく表しています。後に昭和40年代研究者の調べで小規模ながら中世の城址の全容がほぼそのまま残されているのは驚くべきこと、とされています。
この三輪沢山城の特色は、この地方に多く見る土豪の屋敷の改築ではなく、天然の地形を利用した専門家の築城で、天主(物見櫓標高74m)を中心に、空堀・四つの郭(曲輪)を配し、虎口と称する城門が2〜3ヶ所、井戸・土塁が今も残されており、それは享禄の頃(1528〜30)の築城と言われています。【後編へ続く】
文:小島一也(遺稿)
参考文献:「新編武蔵風土記稿」「皇国地誌」「町田市史」「七面山開段300年パンフ(荻野久男)」
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