神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS

「知ること」の重み伝えたい

社会

公開:2017年8月17日

  • X
  • LINE
  • hatena

 「戦争の時代に戻してはいけない」。淵野辺で生まれ育った石井充さんはそう、ゆっくりとした口調で語る。

 1941年、石井さんは県立工業学校の学生として卒業を控えていた。欧州では既に枢軸国と連合国が戦火を交え、各国の砲台も日本を照準に捉えつつあった。国は来たる戦争へ備え、機械整備などの技術を有する学生は軍需工場に勤務するよう奨励。石井さんも相模陸軍造兵廠へ就職し、学校で身に付けた技術を見込まれ戦車の品質管理を担う部署へ配属。就職から1年と待たない間に太平洋戦争が開戦する中、走行試験などに汗水を流した。「戦争になっても日本が勝つと信じていたので、『国に貢献できる』と喜んでいた」。石井さんはその後も複数の軍需工場で勤務し、日本軍を後方から支えた。

 アジアで敗戦が続き戦局が悪化する1944年、石井さんの元に軍への召集令状「赤紙」が届いた。それは、国への献身を求める国家の強制装置。理由なく拒否すれば刑に処せられた。ただ、石井さんの中から湧き出たのは戦闘や死への恐怖ではなく「一人前の日本の男として認められた」という「誇り」に近い感情だった。家族も石井さんの軍入隊を祝い、配属先への出発前には親戚や同僚からの激励の言葉を添えた「日の丸」を我が子へ授けた。

 配属先は千葉県習志野市の東部第9部隊。入隊後は隊の厳しい規律に怯えながら、朝から晩まで実践訓練や上官の身の回りの世話に没頭した。懸命な姿勢が評価され、石井さんは中隊長の補佐役を任されると、最後まで「戦地」に足を踏み入れる事はなかった。

 一方、時を同じくして入隊した同僚の多くは太平洋戦争の最激戦地の一つ「硫黄島」に派遣され、若い命を落とした。「当時は敗戦濃厚でしたが、そんな情報は全く知らされず、私も目の前の事に必死でした。亡くなった同僚の事を思うと本当に胸が痛い」

 終戦間際、石井さんは「本土防衛部隊」に編入されると、相模湾からの敵の上陸に備え、藤沢市内に壕を掘り僅かな戦車とともに備えた。「天皇陛下の所までは行かせないという思いでしたが、あの戦力で立ち向かおうなんて異常でした」。結局、敵と交戦することはなく終戦を迎えた。

 石井さんは戦時中の自身の経験をもとに平和の実現には「知ること」の重要性を指摘する。「戦時中は情報が制限される中で、私たち個人は正常な判断ができる状態ではなかった。まずは、正しい情報を知りそれをもとに自分で考え判断できることが大切。それが民主主義の根幹」と話す。そして「今は当時と比べれば多くの情報に触れることができるが、若い人たちはもっと新聞や本をしっかり読み色々な考え方を学んで欲しい」と願いを込めた。

相模原市のご葬儀

ニーズに応じた家族葬プランをご用意

https://ceremonyhouse.jp

<PR>

さがみはら中央区版のローカルニュース最新6

泣き相撲参加者募集

亀ヶ池八幡宮

泣き相撲参加者募集

5月26日(日)

4月24日

児童がキャラ考案

富士見小

児童がキャラ考案

地元産キウイの普及へ

4月23日

新人にマナー研修

「とぶ」生き物が集合

「とぶ」生き物が集合

ふれあい科学館で企画展

4月20日

恒例の「ぷちまるしぇ」

恒例の「ぷちまるしぇ」

4月28日、横山台で

4月19日

人気の「溝の朝市」

上溝商店街

人気の「溝の朝市」

4月21日開催

4月18日

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 4月6日0:00更新

  • 3月30日0:00更新

  • 3月23日0:00更新

さがみはら中央区版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2024年4月24日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook