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名家のルーツを探る 「渋谷家の千年」

連載【3】 相模大野駅周辺商店会連合会会長・渋谷直樹
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 平安末期。それは争乱の世であり、皇室では崇徳院と後白河天皇が藤原氏や源氏、平氏の中でもそれぞれが権力争いに明け暮れた時代。現代の我々とは関係のないような時代にこの相模の地にも争乱の影響があり今に続く物語があります。

 大和市は高座渋谷駅周辺を整備して「澁谷重国」という武将で街おこしをしています。地元有志による手作り甲冑行列や重国に因んだお菓子・お酒等々。これまでもご案内の通り澁谷氏は桓武平氏の流れを汲む平氏の末裔で、重国は初めに澁谷を名乗ったとされています。その重国の本拠地とされるのが現在の綾瀬市、大和市周辺です。

 三井寺円満院が領家となっていた吉田の庄に秩父六郎基家、重家親子が入り長後天満宮の辺りに館を築いたのが平安末期と言われています。更にその子の重国は領地を広げ、現在の藤沢、大和、綾瀬、海老名、座間、相模原を含む六十六郷は澁谷の庄と呼ばれました。

重国の度量

 先述の通り澁谷氏は平氏の一員ですが、平治の乱(1159)で平清盛に敗れて所領を没収された佐々木秀義を匿い、源頼朝が伊豆で旗挙げするまでの20年間、庇護(ひご)したのが澁谷重国です。都の情報に精通していた佐々木秀義のところには清盛方の情報が入り、そうした情報が頼朝の挙兵成功に大いに役立ったことは史実として認められています。平氏の一員でありながら頼朝方の佐々木氏を匿い庇護してはばからなかった重国の度量の大きさは源平を問わず広まりました。

 しかし初戦で勝利した頼朝に対して重国は、箱根石橋山で大庭景親総大将の下、桓武天皇の血を引く桓武平氏として参陣します。その判断は当人に聞いてみないとわかりませんが、平氏への忠義と佐々木氏との友情の狭間におかれ、葛藤の末の判断が平家方の敗北で幕引きとなります。

 しかしながら後に澁谷氏が、鎌倉幕府の最有力御家人となったことを考えると佐々木秀義の口添えで難を逃れたと推測されます。源氏の世となると澁谷重国は木曽義仲、平家、義経、藤原氏それぞれの征伐にあたって常に先兵として忠勤に励み、幕府もこれを評価して円満院に申請し、重国を澁谷の庄の領主として正式に認可するに至ります。

 源氏による鎌倉幕府が発足した後も朝廷と幕府のずれから全国の領主達に不満は募りました。1213年の和田義盛の乱では和田氏と親交のあった澁谷重国の子、次郎高重が和田方について敗れ澁谷氏の勢力が著しく低下します。

薩摩へわたった五氏

 そこで長男光重は北条氏に取り入り何とか家は続くのですが、承久の乱、宝治の合戦で勲功を挙げて更なる領地を拝領することになります。この領地は宝治の合戦で敗れた上総介秀胤の支配していた薩摩国の川内川流域五郡で、澁谷光重は将軍の許可を得て6人の息子を相模、薩摩国東郷、同祁答院、同鶴田、同入来院、同高城へと、それぞれ地頭として派遣します。これが薩摩へ渡った澁谷五氏であり、後の世で活躍する東郷平八郎などはこの流れから出ました。

 綾瀬市役所の裏手には早川城蹟公園があり、東郷元帥が始祖縁(ゆかり)の地として直筆の碑(=写真)を建てるなど今も澁谷氏居城の様子を色濃く残しています。 続く
 

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