※いずれも一部を抜粋したもの
亡き母の詠める
緑区元橋本町在住 鈴木勝
うす茶色に変色した小冊子「青山」、母千代が戦死した父の霊に捧げんと、昭和三十八年に発行したものだ。随想と短歌の中から心に残る数首を紹介して、生きていれば百二歳の母と写真でしか知らない父を偲びたい。
昭和八年一月あなたのもとに嫁しづいたものの、それは十年の短い縁の糸でしかなく、あなたはあの大戦で子供と私を置いて南の海に散ってしまいました。
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三枚のハガキが語るもの
南区御園在住 関根伸一
朱色で大きく「返信不要」これは戦死した父の生きた証として残った三枚のハガキの一枚に書かれた文字である。
昭和十九年六月一日に名古屋の駐屯地から投函されている。その後、七月十八日戦死の報が届いており、約一ヵ月後には亡くなっていた事になる。四行だけの文面は、預金通帳番号、自分が元気であること、家族に対しては体を大切にするようにと書かれている。父は覚悟の上とはいえどのような思いで書いたのであろうか。
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短歌
南区麻溝台在住野澤とみえおくつきも/千鳥ヶ淵も/靖国も/父の影無く/巡拝の旅に出ず
無き母が/父を慕いて/一日も/忘れえぬ国/東部ニューギニア
巡拝の/機上で「あれが/坂東川」/案内聞けど/空しき流れ
A級の/戦犯なれど/遺骨あり/英雄と讃えられても/紙切れ一つ
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戦争に思う
緑区小渕在住 秦(はた)範子
遠くに目をやり、若い頃の懐かしい歌を口ずさむ母も今年で九十一歳を迎えます。
昔は時々「お母さんはね、お父さんが戦死と分った時はこれからどうやって二人の幼子を育てて行くのかを考えると涙も出なかったわ」と話していました。本当に困った時は涙も出ないものなのでしょうか。出るうちは世の中や家族に甘えているのかもしれませんね。
以上、戦後65年記念誌『逢いたかった』=写真=(2011年、(財)神奈川県遺族会発行)より。