宮司の徒然 其の2 町田天満宮 宮司 池田泉
ネジバナを見て思う
この時期、庭のモジズリ(ネジバナ)が楽しい。ねじれる方向が反対のもあることを今年初めて知った。でも反対にねじれてても喧嘩するわけじゃない。
アラビア語の「インシャラー」。「神の御心のままに」とか「神の導くままに」という意味で、馴染み深いところで言えば映画スターウォーズにしばしば出てくる別れ際の挨拶「フォースと共に在らんことを」に似ている。共有する神様の観念も日本人とは大きく違う。大まかに言えば「現世の幸せ」を願うのが日本人で、「死後の幸せ」を願うのがイスラム教徒。それほどにアラーの存在は生活の全てそのもので、ピンチの時にだけ思いだしたりする日本人とはえらい違い。しかも「神様、仏様〜!!」なんていうこの際誰でも良いという台詞も常用句だったりする。そもそも、精霊信仰に近い多神教である神道は、教義・経典がないことも一要因となり、仏教や儒教の教えもミックスされ、キリスト教など多様な宗教が流入したが、この狭い島の中でさしたる争いもすることなく平和であることは世界的にも不思議な国で、島国ゆえの特異性かもしれない。
彼の国の現状
イスラム教の歴史は教祖ムハンマドの教義を継ぐ「カリフ」の在り方で対立し、シーア派とスンニ派に分かれ、それぞれに穏健派とわずかな過激派を生み、殺戮、誘拐、テロを引き起こし、占領、支配拡大のせめぎ合いになっている。過激なイスラム教徒はほんの一握りで、ほとんどのイスラム教徒(=ムスリム)は穏健派で友好的。ところが「イスラム国」やら「ムスリム同胞団」やら、いかにもイスラム教徒の代表のような名称が世界中を混乱させ、イスラム教徒への迫害につながったりしたことは実に悲しむべき出来事だ。
負の連鎖はお年寄りや女性・子どもが犠牲になるのはわかりきっている。そもそも、信仰の理想は融和と平等、共存と平和であるのに、数百万人とも言われる難民が逃げ惑う地域で平和とは何かと尋ねれば、迷わず「停戦」という答えが返ってくるという。「停戦が理想の平和?」。停戦とは期限付き、また始まるのが停戦であって終戦ではない。戦争がなくなることなど考えることも夢見ることもできない人々。生まれた時から銃弾が飛び交っていた故郷。戦争が終わることは、経験したこともなく、現実味が全くないのだ。ほんの数日でも良いから、銃弾や砲弾が飛び交うことはないと約束された街を歩きたい。安心して眠りたい。大人も子供も、年寄りもそれが夢だなんて、そんなのって悲しすぎる。
さらには鳥インフルとMARS。MARSの発祥地と言われているエジプトでは、既に1000人以上が死亡しているという。鳥インフルも同様。アラブ諸国のメディアが取り上げないのは大した死亡者数ではないという理由が大きい。逃亡したい難民からなけなしのお金を取って地中海をボロ船で渡らせる手引きをする難民詐欺の横行。受入国の手配はしていないから地中海で沈没させて一度に500人以上が犠牲になる。すでに地中海は死体の海だという。これに紛争による死者を合せたら大変な数になり、当地のメディアにとって鳥インフルやMARSは小さな話題だという恐ろしい事実。数十人の死者で大騒ぎになっている韓国や周辺国と比較すると、ただただ腕組みをして唸ってしまうしかない。
ありきたりの日常は?
私はほぼ毎日狭い私だけの花壇で、花を愛でたり、やってくる虫を観察したり、草取りをする。休みの日には自然公園を散策し、鳥の囀りを聴き、花やキノコの写真を撮ったりする。同様に散策する人たちや犬の散歩をする人と挨拶を交わしたりする。雨の日は部屋で本を読んだり音楽を聴く。毎日違うメニューの食事を摂り、入浴し、朝までぐっすりと眠る。そんなありきたりな日常も、イスラム圏の人々には夢以上のこと。子どもや老人にそんな空間や時間を与えることはできないか。悩んでみても思いはいつもここで行き詰る。
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宮司の徒然 其の137町田天満宮 宮司 池田泉12月21日 |
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